をよそ一念無上の名号にあひぬる上は、明日までも生て要事なし。すなはちとく死なんこそ本意なれ。然るに、娑婆世界に生て居て、念仏をばおほく申さん、死の事には死なじと思ふ故に、多念の念仏者も臨終をし損ずるなり。仏法には、身命を捨ずして、証利を得る事なし。仏法にはあたひなし。身命を捨るが是あたひなり。是を帰命と云なり。
『一遍上人語録』巻下-74
一遍上人の仰ることは、いわば「死」を持って、一切の運命が反転するということです。そして、その死が、一念無上の南無阿弥陀仏という名号に逢うことだというのです。この世界に生きていながら、念仏を多くして、そして死ぬことは無かろうなどと思っていては、いつまで経っても、凡夫のままなのです。
されど、すでにこの娑婆世界とは、「苦」をその本質としますから、そのままでは阿弥陀仏からの救済も来ず、さらには、身命を捨てないから、運命が変わることもないわけです。一遍上人は、とにかく身命を捨てよ、といいます。そして、身命を捨てなければ、証明を得ることもないし、身命を捨てることこそ、帰命というのだ、といいます。帰依というのは、それまでの自分自身の生き方を捨てることを意味します。
念仏というと、どこか死んでから助かるとばかり思っておりますけれども、問題はこの「死」に対する考え方です。この「死」とは、本来的に宗教的な「死」を意味しており、いわば阿弥陀仏に救っていただいた、という確信こそを「死」というわけです。ですから、身命を捨てることが、同時に帰依を意味しているわけです。身命を捨てるといっても、いわゆる現代的にいう「自殺」を意味しているのではないわけです。しかし、「死」なのです。
「殺」では、「不殺生」を謳う仏教に於いて、重大な違反をしてしまいますけれども、「死」であれば問題はないわけでございます。
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tenjin95
無門
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