沙門の日円は、もともと天台宗の修行僧であった。
後には菩提心を発して、身を深い谷に隠し、金峰山にある3つの石窟に住しながら、長い期間米穀を断って、ほとんど仙人のような存在になっていた。
後には美作国真嶋山(現在の岡山県西部)に移住したのだが、当国や隣国の住人が日円を鑽仰する様子は、仏を鑽仰するようなものであった。
中国にある霊山の清涼山を礼拝しようと思い、大宋国の商船に乗って渡海した。後には、中国にある天台山国清寺に於いて入滅したという。臨終の相からも、往生は疑いないという。
『続本朝往生伝』第30、岩波日本思想大系『往生伝・法華験記』246頁、拙僧ヘタレ訳
この『往生伝・法華験記』の補注などを見ましても、この「日円」というのが誰かは分からないようです。もちろん、天台宗の修行僧だということ、中国に行って、その地で往生したことなどは、以上の記述から知られるわけですが、この説話を補完する他の資料との整合性が取れないということらしいです。
で、この日円ですが、時代的には『続本朝往生伝』の成立したのが、康和年間(1099~1104)だとされておりますので、それ以前の人だったと理解出来ます。既に、天台宗には慈慧大師良源(912~985)や、恵心僧都源信(942~1017)が輩出されていて、往生に関するような説話はたくさん作られる状況に至っていたことは間違いないと思います。
そこで、日円ですが、非常に神仙的には優れていたようで、まるで仏であるかのように思われていたようです。この時期も既に、「超能力者」というのは多くの人から尊崇されたようです。無論、自然性が豊かな場所であればあるほど、我々にとって、自然とは畏怖の念でもって、付き合わねばならない相手となります。それらに対し、こういった「超能力者」は、人間側の力として期待されたのでしょう。
しかし、こういう「相手」というのは、どうやっても見出さないと、我々人間というのは落ち着かないみたいで、最近でも「霊」とか、そういう存在を作り出し、それらに対し、何とかしてくれそうな「霊能者」を見出しています。しかし、おそらくこの「自然」と「霊」というのは、我々自身の感情に起因するものなのでしょう。
そして、この感情に起因する状況というのは、自然宗教とはなっても、創唱宗教とはならないものです。このような違いを見ていくと、それぞれ「何を問題点にするか?」が理解出来るかもしれません。日円と若干話がずれてしまいましたが、日円が中国の清涼山や天台山に行き、素晴らしい様子で臨終を迎えたということが、日円もまた、創唱宗教を選んだという意味に繋がるのではないかと思います。
それにしても、この時代の同様の文献を見ているといつも思うのは、「菩提心(修行への志)」を発すと書かれるというのが、比叡山にいる時ではなくて、そこから「離れる時だ」というのは、非常に面白いと思います。結構、同じような文脈を使っている説話は見えますからね。
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