つらつら日暮らし

「応以讃多身得度者、観世音菩薩即現讃多身而為説法」

今日はクリスマスイブである。良い子の下には今晩、サンタさんからプレゼントが届くことだろう。

ということで、今日は「サンタ(讃多←当て字・笑)」の話である。とりあえず、『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品」の一部をもじってみて、こんな文章を作ってみた。

「応以讃多身得度者、観世音菩薩即現讃多身而為説法」

訓読すれば、こうなる。

讃多身を以て得度すべき者には、観世音菩薩即ち讃多身を現じて為に法を説く。

「観世音菩薩」は、基本的に相手の状況に合わせて、自由に変身できるという。よって、「讃多」にもなれるだろう、とか思うのである。よって、拙僧は、「サンタは観音だ」ということにしている。さて、そこで、別の経典では、この「観音」を観察するための経典がある。そちらもちょっとおふざけ込みで考えてみたい。

 無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。
 この菩薩、身の長八十万億那由他由旬なり。身は紫金色なり。頂に肉髻あり。項に円光あり。面おのおの百千由旬なり。その円光のなかに五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に五百の化菩薩と無量の諸天ありて、もつて侍者たり。挙身の光のなかに五道の衆生の一切の色相、みななかにおいて現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝あり、もつて天冠とす。その天冠のなかに、ひとりの立化仏まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は、閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相に七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出す。一々の光明に、無量無数百千の化仏まします。一々の化仏は、無数の化菩薩をもつて侍者とす。変現自在にして十方世界に満てり。たとへば紅蓮華色のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞とす。その瓔珞のなかに、あまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華色をなす。手の十指の端、一々の指の端に八万四千の画あり。なほ印文のごとし。一々の画に八万四千色あり。一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引したまふ。足を挙げたまふ時、足の下に千輻輪の相あり、自然に化して五百億の光明の台となる。足を下ろしたまふ時、金剛摩尼の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし。その余の身相・衆好、具足せること仏のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂の相、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実色身を観ずる想とし、第十の観と名づく。
    『仏説観無量寿経』


これが、『観経』の指摘する観音菩薩の姿である。いやはや、とんでもない話である。同経に於いて、観音はあくまでも、阿弥陀仏の脇侍に過ぎないが、これだけの姿をしていると思うと、ほとんど仏陀かと思ってしまう。まぁ、それには及ばないとは書いているのだが・・・

そして、この経典から「讃多」的事実を探ってみると、「足を下ろしたまふ時、金剛摩尼の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし」というところであろうか?要するに、観音が上げた足を下ろすとき、「金剛摩尼の華」という大変に優れた華があり、これが全世界に満ちると述べているのである。この辺などはどうだろう?袋に入ったおもちゃ、とはいかないが、或る意味功徳が全世界に満ちていることには変わらないのだ。

個人的には、以下の文脈に興味関心がある。

身は紫金色なり。頂に肉髻あり ⇒ 身は深紅なり。頂に紅頭巾あり

ここは、こういう風に変えてしまいたい・・・

足を挙げたまふ時、足の下に千輻輪の相あり ⇒ 足を挙げざる時、足の下に馴鹿とソリあり

ここも、こう変えてしまいたい・・・

今日・明日と、全世界の子供たちが、1人でも幸せになることを願うばかりです。

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