ずいぶん、教科書の内容が変わっているに驚いた。もちろん、どう
変わっているか?ぐらいは把握していたが・・・。
1993年の新入生から彼らが卒業するまでの3年間・・・が
<三年間一貫社会科>の最後だった。それまでも、時間数は増えても
担任していても、<一人で一学年を>希望した。
三年通しだと・・・。
例えば、地理で「太平洋」を教えるときに、マゼランも教えてしまう
ことが出来る。絵本をつかったりして、マゼランがパシフック・オーシャン
の名をつけ、フィリピンは、フィリッぺ王子・・・とか。
そして、パリーグの「パ」を、アルファペットでノートにメモさせちゃう
のである。オーシャンも然り。
そして「これは、歴史の教科書の○ページで出てくる」とのたまっておく
んであ~るっ!
この学年の高校進学状況は、よかった。職人気質の、変わり者の数学教師
Sさん、実験大好きの理科のFさんと意欲のあるベテランが三年間一緒・・・。
途中で変わったが、英語科は入れ替わったと思うが、エネルギッシュな
ベテランが揃っていた。
いや、記憶に間違いがあるかも知れない・・・。
ただ、この中学での最後の三年間は、「今度こそ!」と数名の教師が
誓い合って、スタートした学年だった。宗右衛門町で語り合った記憶が
心のそこにどんとある。
ただしかし、これは「私の心象風景」だ。
一年間の内地留学のあと、私は淀川区の推進校に転勤した。
わたしの教師生活のスタートは、府立高校の講師の後、被差別を
含む小学校だった。
父からの薫陶もあり、大学での多くの学びも経験していたから、この
中学校への赴任を私は喜んだ。
しかし、しばらくすると、この中学校の教師たちに対して、全員では
ないが、不信と怒りを抱くようになった。過剰な、いや恵まれた員数
配置にもかかわらず、授業に対する姿勢のいいかげんさに・・・とでも
いおうか。
ここでは、二年生に配属されて、もう一人の社会科が<応援>で
1クラスを担当した。
戦国時代や明治維新の彼の授業にたいして、「お前、ずっと
推進校で来たのだろう?」と呆れたのである。
三年生を卒業させた後、踏ん張ってみようとしたが、切れた!
最初の休職に入った。しかし、私が市教委でしていた仕事は、
「休む」ことが出来ず継続した。
次の学校はさておいて、その次の学校は三年生に所属・・・。
現在の学校も、三年生の所属で二年生の授業も担当で、翌年は
二年生所属で、三年生の授業も3クラス中2クラスを担当だった。
今年は、十三年ぶりの一年生・・・だった。
この子達が、三年生になったとき、高校入学にむけての受験
勉強のとき、困らないだけのことを叩き込んでおいてやるっ!
と臨んだ・・・。
国土地理院の地形図の読図は、テストに出しつづけた。また
全国各地の地図が揃っている「ぶよお堂」に通っては、例えば
愛知の豊田市の地形図を何枚か買って、読図も続けさせた。
北九州、豊田・・・。自分が行ったことのない地域へ旅行して
実際、自分が見聞して授業に備えた。
気候の単元に入る前から、雨温図を書かかせた。一人で
100枚近い雨温図を作成した生徒もいる。ほとんどの生徒が
99パーセント、雨温図を作成できる。
月間降水量や月平均気温の数字は「理科年表」を買って、世界
各地の表を作成したが、正確にいうと、生徒のせっつかれて作ら
された。(笑)
グラフは、B5サイズで1枚、1都市。大きいから目盛りもとり
やすかったようだ。気候の単元に入る頃には、ほぼ全員がさっと
書けるようになっていた。
グラフは、円グラフを主に、統計をみて書く作業を続けさせた。
「どれどこ産地」というネーミングで、例えば世界の小麦の
①生産量 ②輸出している国 ③輸入している国 ④日本の輸入先
・・・を地図を加えたB4プリントで作ってみた。
いくつかのパターンを作った。
これらは、三年生に対する受験対策でやったことだった。
6月に買った「国勢図会」はもうボロボロである。もちろん
夏に発行される世界国勢図会も、12月の「県勢」も、昨年度分
を使っていたが、最新のは「ぶよお堂」さんに注文しておいて、
さんに注文してすぐさま切り替えた。
まもなく、今年度も終わる・・・。
ノート点検は最低週一回・・・。中には、毎回授業の後に
もってくる生徒も少なくない。
トトロのスタンプは5種類、くまのプーさん、風船、
パンダ、カメ、ミッキーマウスなどなど。年賀状用のスタンプ
とか、ファンシーショップでバーゲンで買い、文字を削った。
「先生用」スタンプは使わなかった。
「がんばりましょう」「よくできました」のあの文字はどうも
自分の好みではない!
自主学習用のノートを作った生徒は、三分の一くらいかな?
自分からすすんで、教科書本文をまとめてきたりする生徒も
ふえてきた。
今年度もあと少しである・・・。
できれば、来年度の持ち上がりを希望しているが、どうなる
かわからない。もう一年、かれらを教えることが出来たら、
思い残すことなく、退職できるのだけれど・・・。
変わっているか?ぐらいは把握していたが・・・。
1993年の新入生から彼らが卒業するまでの3年間・・・が
<三年間一貫社会科>の最後だった。それまでも、時間数は増えても
担任していても、<一人で一学年を>希望した。
三年通しだと・・・。
例えば、地理で「太平洋」を教えるときに、マゼランも教えてしまう
ことが出来る。絵本をつかったりして、マゼランがパシフック・オーシャン
の名をつけ、フィリピンは、フィリッぺ王子・・・とか。
そして、パリーグの「パ」を、アルファペットでノートにメモさせちゃう
のである。オーシャンも然り。
そして「これは、歴史の教科書の○ページで出てくる」とのたまっておく
んであ~るっ!
この学年の高校進学状況は、よかった。職人気質の、変わり者の数学教師
Sさん、実験大好きの理科のFさんと意欲のあるベテランが三年間一緒・・・。
途中で変わったが、英語科は入れ替わったと思うが、エネルギッシュな
ベテランが揃っていた。
いや、記憶に間違いがあるかも知れない・・・。
ただ、この中学での最後の三年間は、「今度こそ!」と数名の教師が
誓い合って、スタートした学年だった。宗右衛門町で語り合った記憶が
心のそこにどんとある。
ただしかし、これは「私の心象風景」だ。
一年間の内地留学のあと、私は淀川区の推進校に転勤した。
わたしの教師生活のスタートは、府立高校の講師の後、被差別を
含む小学校だった。
父からの薫陶もあり、大学での多くの学びも経験していたから、この
中学校への赴任を私は喜んだ。
しかし、しばらくすると、この中学校の教師たちに対して、全員では
ないが、不信と怒りを抱くようになった。過剰な、いや恵まれた員数
配置にもかかわらず、授業に対する姿勢のいいかげんさに・・・とでも
いおうか。
ここでは、二年生に配属されて、もう一人の社会科が<応援>で
1クラスを担当した。
戦国時代や明治維新の彼の授業にたいして、「お前、ずっと
推進校で来たのだろう?」と呆れたのである。
三年生を卒業させた後、踏ん張ってみようとしたが、切れた!
最初の休職に入った。しかし、私が市教委でしていた仕事は、
「休む」ことが出来ず継続した。
次の学校はさておいて、その次の学校は三年生に所属・・・。
現在の学校も、三年生の所属で二年生の授業も担当で、翌年は
二年生所属で、三年生の授業も3クラス中2クラスを担当だった。
今年は、十三年ぶりの一年生・・・だった。
この子達が、三年生になったとき、高校入学にむけての受験
勉強のとき、困らないだけのことを叩き込んでおいてやるっ!
と臨んだ・・・。
国土地理院の地形図の読図は、テストに出しつづけた。また
全国各地の地図が揃っている「ぶよお堂」に通っては、例えば
愛知の豊田市の地形図を何枚か買って、読図も続けさせた。
北九州、豊田・・・。自分が行ったことのない地域へ旅行して
実際、自分が見聞して授業に備えた。
気候の単元に入る前から、雨温図を書かかせた。一人で
100枚近い雨温図を作成した生徒もいる。ほとんどの生徒が
99パーセント、雨温図を作成できる。
月間降水量や月平均気温の数字は「理科年表」を買って、世界
各地の表を作成したが、正確にいうと、生徒のせっつかれて作ら
された。(笑)
グラフは、B5サイズで1枚、1都市。大きいから目盛りもとり
やすかったようだ。気候の単元に入る頃には、ほぼ全員がさっと
書けるようになっていた。
グラフは、円グラフを主に、統計をみて書く作業を続けさせた。
「どれどこ産地」というネーミングで、例えば世界の小麦の
①生産量 ②輸出している国 ③輸入している国 ④日本の輸入先
・・・を地図を加えたB4プリントで作ってみた。
いくつかのパターンを作った。
これらは、三年生に対する受験対策でやったことだった。
6月に買った「国勢図会」はもうボロボロである。もちろん
夏に発行される世界国勢図会も、12月の「県勢」も、昨年度分
を使っていたが、最新のは「ぶよお堂」さんに注文しておいて、
さんに注文してすぐさま切り替えた。
まもなく、今年度も終わる・・・。
ノート点検は最低週一回・・・。中には、毎回授業の後に
もってくる生徒も少なくない。
トトロのスタンプは5種類、くまのプーさん、風船、
パンダ、カメ、ミッキーマウスなどなど。年賀状用のスタンプ
とか、ファンシーショップでバーゲンで買い、文字を削った。
「先生用」スタンプは使わなかった。
「がんばりましょう」「よくできました」のあの文字はどうも
自分の好みではない!
自主学習用のノートを作った生徒は、三分の一くらいかな?
自分からすすんで、教科書本文をまとめてきたりする生徒も
ふえてきた。
今年度もあと少しである・・・。
できれば、来年度の持ち上がりを希望しているが、どうなる
かわからない。もう一年、かれらを教えることが出来たら、
思い残すことなく、退職できるのだけれど・・・。
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