新緑が眩しい5月、京都東山の鹿ヶ谷にある安楽寺(住蓮山安楽寺)さんへ行ってきました。
鎌倉時代の初期、現在地より約1キロ東にあった「鹿ヶ谷草庵」では法然上人のお弟子の
住蓮房と安楽房が毎日『往生礼讃』をお勤め布教し、参集する人々と共にお念仏を喜んでおられました
それで山門の前には「浄土(往生)礼讃根元の地」と石柱が建っています。
『往生礼讃』とは中国の善導大師が、阿弥陀如来のご本願を信受した行者が
日沒、初夜、中夜、後夜、尋朝、日中の六時に分けて実修すべき行儀礼法を明かされたものです。
その『往生礼讃』に住蓮房と安楽房が天台(大原魚山)の譜曲をつけて
「六時礼讃声明」を完成しお勤めされていました
本願寺でも蓮如上人までは日夜お勤めになっていましたが、
現在ではご正忌報恩講にお勤めになります
山門をくぐると本堂があります。
本堂中央には阿弥陀如来座像、観音・勢至二菩薩、地蔵菩薩、龍樹菩薩のお木像があり、
右側には住蓮、安楽二上人のお木像、左側には法然聖人の張子像、親鸞聖人、十一面観音菩薩の
お木像が安置されています。
親鸞聖人がご使用されていたという杖と蓑笠もありました
鹿ヶ谷草庵での「六時礼讃」のお勤めは多くの人々の拠り所となったと同時に
法然聖人、親鸞聖人の流罪のきっかけともなります
法然聖人が念仏往生の教えに帰依されたのは、善導大師の『観経疏』にあるご文にありました。
「称名念仏こそが往生の行である。それは阿弥陀仏の本願の意に順ずるからである。」
法然聖人は、お念仏は阿弥陀如来が本願に選び取られた往生の行である事について、
阿弥陀如来の平等の救いを人々に教化されました。
それは老いも若きも、男も女も、財力がある人もない人も、立派な修行に耐えられる人も耐えられない人、又職業や能力など、一切の分け隔てのない平等の救いです。
ただ本願を信じ、お念仏申す人を阿弥陀如来は必ず救うと本願に誓われていたのです
その教えを聞くために人々は法然聖人のいらっしゃった吉水の草庵に、
又、この鹿ケ谷草庵に集い、益々お念仏の教えが広まっていったのでした。
しかし、その事で聖道門の教団や奈良の興福寺より「念仏停止」の声が強まります。
そのような状況の中、後鳥羽上皇の女官として仕え、寵愛されていた松虫姫と鈴虫姫の姉妹も
法然聖人から受けた念仏の教え以外に救われる道はない、と、住蓮、安楽坊が催した別時念仏に足を運び、その場で出家し、尼僧となる事件が起きました。
この事を知った上皇は激怒、この事件をきっかけに、建永二年(1207)専修念仏は停止・弾圧され、
住蓮、安楽坊は斬首刑、法然聖人は土佐へ、親鸞聖人は越後へ流罪となったのです(承元の法難)
住蓮房と安楽房のお墓。
承元の法難の後、鹿ケ谷草庵は荒廃しましたが、流罪地から帰京した法然聖人が草庵を復興し、
現在の「住蓮山安楽寺」として再建されました
「往生礼讃」のご文。
自信教人信 難中轉更難 大悲傳普化 真成報佛恩
法然聖人はご流罪になった事を「恨んでいません。それどころか希望していた
地方にお念仏を勧め、ひろめるご縁ができました。これは朝廷のご恩というべきです。
お念仏の教えがひろまる事は人が止めようとしてもそれは決して止まるはずはありません。」
と話して土佐に向かわれたそうです。
親鸞聖人もご流罪にあわれた事で、越後から関東へお念仏をひろめられる事となりました。
住蓮・安楽房の辞世の句
「極楽に 生まれむことの うれしさに
身をば佛に まかすなりけり」 住蓮上人
「今はただ 云う言の葉もなかりけり
南無阿弥陀仏の み名のほかには」 安楽上人
若葉が力強く繁っていました。 合掌
(果)