天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

デスノート

2006-12-10 22:37:35 | 日々
やっと完成しました!

東京教区青年僧侶協議会(東青僧)から年数回季刊誌が発行されています。
今回、そのトップ記事「愚者愚者」の寄稿のご縁をいただきました。
何といっても物書きが苦手な私にとっては一苦労でした。

テーマは、今話題の「デスノート」。
以前、松本智量先生に薦めていただいて読んだ漫画『デスノート』。その斬新なアイデアと複雑に展開するストーリー、すっかり漫画の魅力の虜になりました。
現在は、映画版も出来、前編に続き、後編も大ヒット上映中。

『デスノート』妖怪を思わせるようなネーミングがグッドですね。

以下苦心の作の原稿を紹介します。
ぜひご批評をお願い致します。



「デスノート」そのノートに名前を書かれた人間は必ず死ぬ。
そんな恐ろしいノートをめぐるストーリーが人気を博している。死神が落としたデスノートを使って犯罪のない世界を作り上げるため、正義感に貫かれ犯罪者を粛清していくエリート大学生キラ。それに対し、警察の要請でキラを追う天才少年エル。二人の間の壮絶な頭脳戦が繰り広げられストーリーは展開する。

この話から考えさせられるテーマは、善とは何か、悪とは何か。
キラにとって犯罪者は悪。そしてそれを裁く自分は善。
理想の社会を築くという大義名分のもと、次々と何のためらいもなくデスノートに名前を書き込み、犯罪者たちを殺し続ける。そして最後には、何の罪も犯していない実の父親さえも殺そうとする。なぜなら、目的達成の妨げとなるから。裁くべき悪が、社会的悪から、自分にとって不都合なもの、邪魔なものへと変わってしまったのである。自分の基準で判断する善悪がいかにあやふやなものか、そのこわさが思い知らされる。そして、自分が正義だという思い込みから殺人さえも犯す。その驕りもおそろしいものである。

『歎異抄』には「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」とある。
親鸞聖人は私には善悪を深く見極め、はっきりと裁けるほど偉い人間ではないと自分自身を見つめられる。分別を超えた仏さまの慈しみのこころに出遇ってこそ、本当の自分のすがたを知り、ありのままを受け入れられる。そこに裁き合い切り捨てていく世界から、生かし合う世界が開けるのであろう。

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と書きながら、正直まだデスノートⅡは映画をみていないのです
だから、友人に話を聞いたり、批評をみたり・・・
「百聞は一見にしかず」であります、早速映画版を見に行かなければ。

それにしても、こういうテーマの映画が話題になるということは、そこに私たちは何を求めているのだろうか?と考えさせられたことです。

(龍)



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