毎週日曜日は、朝7時から日曜礼拝が勤まります。
正信偈・和讃繰り読み・御文章・法話という流れになっております。
本日のご和讃と御文章は、
ご和讃:浄土和讃「無明の大夜をあはれみて」より6首
御文章:唯能常称の章
本日の担当は山口さん。
本日のお朝事の本願寺新報お盆号からお言葉を紹介して下さいました。。
エッセイスト岸本葉子さんのお言葉です。
お墓を通して掌を合わせるのは、その中にお骨を納めた母に対してだけではなく、背後にあるもっと広くて深いものなのだろう。そう感じるようになったのは、がんと共に生きる月日を経てからだ。
十年ほど前に治療をし、再発や死の不安に揺れる心を平らかに保ちたいと、さまざまな書を読んだ。その中で仏教にふれ、頭で自分を引っ張っていくのではなく、自分を超えた何か大きなものにゆだねるということを学んだ。ふだん住む理知の世界の言葉に置き換えることができなくとも、その何かは確かにある。
もう一つは、東井義雄先生の詩「妻」です。
見まもられている「私」 妻 「何もしてあげることができなくて
「すみません」 ポツリと そんなことをいう 妻
「なんにもしてあげることができなくてすまん」のは こっちだ
着るものから たべるものから パンツの洗濯まで してもらってばっかりで
「なにもしてあげることができなくて」いるのは こっちだ
しかも 妻に 「すまん」といわれるまで 「すまんのはこっちだ」ということにさえ
気がつかないでいた
こっちこそ ほんとに すまん。
「でも、そういう私であることを知らせていただいたおかげで、こんな私が生かされていた、こんな私であるのに赦されていた、守られていた、包まれていた、ということが、ただごとではないこととして仰がれるのです」というお言葉です。。
とても印象深かったので、紹介させて頂きました。
(龍)
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