十六
健二の葬儀には奈々子も参列した。宏子は号泣していたが、奈々子はもう涙は出なかった。ふれあい園からも多くのメンバー、スタッフが駆けつけた。奈々子は彼らとは特に話はしなかった。出来なかった。
やがて葬儀は終わり、親族は斎場へ向かった。参列者たちはそれぞれ帰ろうとした。奈々子も帰ろうとしたが、60代半ばくらいの喪服姿の女性に声を掛けられた。
「あなたが、藤野奈々子さん?」
「は、はい。」
奈々子は少し緊張して応えた。
「朝倉の母です。」 その女性は言った。
「ああっ、初めまして。」
「初めまして。ほら、故人の両親は斎場へは行かないって言うでしょう?だから私はここに残ったの。もしかしたら健二がよく話していた奈々子さんという女の子が来てるんじゃないかって思ったし。昨日まではあの子のことで主人と泣いたけど、もう涙も枯れちゃって。」
「そ、そうですか。」
「奈々子さんという女の子は2年前にふれあい園を出て行ったって健二から聞いてたけど、その後も健二はよく奈々子さん、あなたのことを話していたの。うんうん、本当にすてきなお嬢さん。あの子が好きになるのも無理ないわ。」
「・・・と言いますと?」
「まあね、聞いて頂戴。あの子は子どものころはあまり女の子と遊んだりなんかしなかったけど、まあ大人になって独身時代は普通にお付き合いはしてたわ。デートしたりして。病気してからもよ。あの子、親の私が言うのもあれだけど女の子からはもてたわ。」
「そうでしょうね。」
「でもそんなあの子が初めて私に紹介したのが宏子さん、今のあの子の奥さんよ。いいお嬢さんで本当にうれしかったわ。」
「そうですね。」
「宏子さんも病気をお持ちとかだそうけど、本当に健二にはぴったりだと思ったの。いざ結婚って話になってあちらのご両親も本当に喜んでおられたわ。その後、結婚して二人でうまくやっていたけど、ほら宏子さんは健二より体が悪いみたいで、体というより精神的にかな? たびたび入院されて、その間の家事はすべて健二がやったの。あの子親の私から見ても賢い子だと思えたわ。」
「そうですか。」
「本当はあの子には兄か姉がいたはずなんだけど、私が流産してしまったの。二番目に生まれたのが健二で、それで名前に漢数字の二をつけたんだけども、実はあの子にはまだ妹がいたの。末の子よ。でもその妹が17歳のときに・・・」
「確か自殺したって健二さんが・・・」
「そうなの。あの子から聞いていたのね。朗らかな子だったけど、友達との人間関係に悩んでたみたいだったわ。生きてたら今34歳。私の子どもたちはみんな親不孝者だわ。でも健二が一番親孝行してくれたわね。」
「健二さんは本当にすてきな方でした。ハンサムでスタイルがよくて。頭がよくて紳士的で。話がとっても面白くて。初めてお会いしたのはカフェでやっているフランス語講座だったんですけど、レッスンの後二人でお話しする機会があって、私そのときまだ高校生だったんですけど、いっぺんに健二さんの魅力にはまりました。」
「ありがとう。フランス語講座の話は私にもしてくれたわ。かわいい高校生の女の子が来てて、すごく出来るんだって言ってたわ。フランス語なんかお出来になるのね、奈々子さんは。」
そんなことないです、と奈々子は受け流した。
「でもね私言ったの、健二に。その高校生の方とは仲良くしてもほどほどにしておきなさい、って。宏子さんがいらっしゃるし、その女の子にもきっと大切な方がいらっしゃるでしょう、って。」
「いえ、それは・・・。」
「いえいえ、そうなのよ。仮にどんなにあなたのことがいいからといっても宏子さんのことを見捨てていいなんて有り得ないわ。結婚とはそういうものなの。失礼だけど、奈々子さんはまだだから分からないかもしれないけど、結婚っていうものは一人を選ぶことなの。つまりその一人以外をみんな捨ててしまうことなの。あの子は宏子さんを選んだのだからもう他を選ぶことはないの。」
「・・・」
「それにこんなこと言いたくないけど、40近い病気持ちのあの子と大学生で健常者の奈々子さんでは条件が違いすぎるわ。好きなもの同士なら誰でもいい、なんてことはないと私思うの。恋愛には責任が伴うわ。ましてや結婚となったら、結婚は一生のことだからできる限り釣り合いというか対等な立場でないと許されないと思う。あなたがどこまで健二のことを想っていたのかは分からないけど。」
「わ、私は健二さんのことが好きでした。恋をしていました。」
「ありがとう。でも恋愛はあなたが思うほど自由なものではないわ。許されない恋愛だってある。あなたの健二への思いは純粋でまっすぐなものだけど、許されるものではないの。」
「・・・」
「私も一人の人間、女だから数多く恋愛はしてきたわ。結婚する前はもちろんだし、結婚してからも気になる人がいたりして。でもね、奈々子さん。どんなに強い思いでも届かないこと、届くべきでないこともあるのよ。」
健二の母はさらに続けた。
「本当にごめんなさい。あなたに説教なんか垂れて。でもこれだけはあなたに託すわ。」
と、奈々子に封書を差し出した。
「健二の部屋に何通もあったの。これはそのうちの一通なんだけど、封してなかったから私読んじゃったけど。奈々子さん宛に書いたものらしいの。読んであげて。健二なりのまっすぐな思いだから。」
奈々子はためらったが、恐る恐る受け取った。
「本当にごめんなさい。でもありがとう。あの子のことを好きだと言ってくれて。本当にうれしいわ。」
二人はあいさつを交わし、分かれた。
十七
藤野 奈々子 様
前略 ふれあい園にはまったくお見えにならなくなりましたね。いかがされているのか心配です。ここのメンバーもスタッフもみんなあなたの復帰を待っていますよ。本来ならもっと早くにこうしたお手紙を送るべきでしたが、そうする勇気が私にはありませんでした。実際こんな手紙を何度も書いては出せずにいたものですから。
年甲斐もなく、あなたに惚れていました。あなたとお近づきになってすぐにあなたのことが好きになり、私は必死であなたのことを考えないようにしました。すべては妻の宏子のため、自分に言い聞かせました。それはある程度まではうまくいったと自覚しています。しかし、完璧には出来ませんでした。母も私があなたに好意を持つことには反対でした。しかし、あなたへの思いは日に日に強くなりました。
私は怖ろしいくらいの自惚れ屋です。あなたが私に好意をお持ちだと勝手に解釈していました。あなたがわざわざ私と同じG大学の経済学部に進学したこと、ふれあい園にアルバイトに来られた事実からそう解釈しました。でもその解釈に完全な自信を持てなかったので、もし好意を持っておられたら私はどんなに幸せだろう、そんなふうに思っていました。
それだけに初夏のあの海で告白を受けたことは本当に喜びでした。驚きでした。ですが、宏子のため、とあなたに素直になれませんでした。素直になれなかったことは本当に大きな損失であり、悔やんでも悔やみきれないことであります。
しかし、あなたの愛を素直に受け入れていたとしたら!宏子があまりにもいかわいそうです。宏子は何もかも私に頼りきっています。私を愛し、信じきっています。やはり私も妻を愛しています。あなたとのことがあったとしてもです。この矛盾から逃れることが出来ないのです。宏子を恨みすらしました。宏子がいなくなってしまえば、とも思いました。でもすべては私の自分勝手な妄想でした。
あなたもふれあい園を離れ、私からも離れられました。そうすることが自然な道だったことでしょう。私にはつらいことですが、今はそれを支持してみたく思います。もし私から離れたことをあなたが少しでもつらい、と感じられたらそれはとてもうれしいことです。
しかしあなたはまだ若い。洋々たる未来があります。無限の可能性がある方です。きっともっとあなたにふさわしい方がいるのだと思います。一回り以上も年上で病気持ちの私なんかより、もっとふさわしいその方との本当の幸せを今は願います。あなたを獲得することは出来ない、しかし喪失することも出来ない。そんな私にとって今のこのあなたと会えない無味乾燥な日々は私の最後の選択肢だったように思えます。さようなら。私より幸せになってください。
敬具
朝倉 健二
日付は二年前の7月7日になっていた。あの潮干狩りの約1ヵ月後で、7月7日は奈々子の誕生日だ。健二はそのことを意識して書いたのかも知れない。奈々子は一気に読み上げると、少し泣いた。健二の葬儀のときに出なかった涙が今出たようだった。
「健二さん・・・」
奈々子は無性に健二のことが懐かしくなった。健二に会いたくなった。そして失ってはならないものを失ったと思った。涙のしずくが手紙に落ちた。やがて嗚咽に変わった。
公認会計士の試験の結果が分かった。奈々子は晴れて合格した。後で人づてに聞いたのだが、健二も合格していたらしいと聞いた。
大手監査法人への就職も決まった奈々子。2年以上ぶりにふれあい園に復帰した。中川さんからの強い要請があったのだ。朝倉君の遺志を継ぐつもりで来てほしい、と。アルバイトではなく、健二と同じボランティアとして再度ふれあい園に加わった。これには中川さんをはじめ山本さん・石川さん・宏子・そしてメンバー全員が歓迎した。
終
健二の葬儀には奈々子も参列した。宏子は号泣していたが、奈々子はもう涙は出なかった。ふれあい園からも多くのメンバー、スタッフが駆けつけた。奈々子は彼らとは特に話はしなかった。出来なかった。
やがて葬儀は終わり、親族は斎場へ向かった。参列者たちはそれぞれ帰ろうとした。奈々子も帰ろうとしたが、60代半ばくらいの喪服姿の女性に声を掛けられた。
「あなたが、藤野奈々子さん?」
「は、はい。」
奈々子は少し緊張して応えた。
「朝倉の母です。」 その女性は言った。
「ああっ、初めまして。」
「初めまして。ほら、故人の両親は斎場へは行かないって言うでしょう?だから私はここに残ったの。もしかしたら健二がよく話していた奈々子さんという女の子が来てるんじゃないかって思ったし。昨日まではあの子のことで主人と泣いたけど、もう涙も枯れちゃって。」
「そ、そうですか。」
「奈々子さんという女の子は2年前にふれあい園を出て行ったって健二から聞いてたけど、その後も健二はよく奈々子さん、あなたのことを話していたの。うんうん、本当にすてきなお嬢さん。あの子が好きになるのも無理ないわ。」
「・・・と言いますと?」
「まあね、聞いて頂戴。あの子は子どものころはあまり女の子と遊んだりなんかしなかったけど、まあ大人になって独身時代は普通にお付き合いはしてたわ。デートしたりして。病気してからもよ。あの子、親の私が言うのもあれだけど女の子からはもてたわ。」
「そうでしょうね。」
「でもそんなあの子が初めて私に紹介したのが宏子さん、今のあの子の奥さんよ。いいお嬢さんで本当にうれしかったわ。」
「そうですね。」
「宏子さんも病気をお持ちとかだそうけど、本当に健二にはぴったりだと思ったの。いざ結婚って話になってあちらのご両親も本当に喜んでおられたわ。その後、結婚して二人でうまくやっていたけど、ほら宏子さんは健二より体が悪いみたいで、体というより精神的にかな? たびたび入院されて、その間の家事はすべて健二がやったの。あの子親の私から見ても賢い子だと思えたわ。」
「そうですか。」
「本当はあの子には兄か姉がいたはずなんだけど、私が流産してしまったの。二番目に生まれたのが健二で、それで名前に漢数字の二をつけたんだけども、実はあの子にはまだ妹がいたの。末の子よ。でもその妹が17歳のときに・・・」
「確か自殺したって健二さんが・・・」
「そうなの。あの子から聞いていたのね。朗らかな子だったけど、友達との人間関係に悩んでたみたいだったわ。生きてたら今34歳。私の子どもたちはみんな親不孝者だわ。でも健二が一番親孝行してくれたわね。」
「健二さんは本当にすてきな方でした。ハンサムでスタイルがよくて。頭がよくて紳士的で。話がとっても面白くて。初めてお会いしたのはカフェでやっているフランス語講座だったんですけど、レッスンの後二人でお話しする機会があって、私そのときまだ高校生だったんですけど、いっぺんに健二さんの魅力にはまりました。」
「ありがとう。フランス語講座の話は私にもしてくれたわ。かわいい高校生の女の子が来てて、すごく出来るんだって言ってたわ。フランス語なんかお出来になるのね、奈々子さんは。」
そんなことないです、と奈々子は受け流した。
「でもね私言ったの、健二に。その高校生の方とは仲良くしてもほどほどにしておきなさい、って。宏子さんがいらっしゃるし、その女の子にもきっと大切な方がいらっしゃるでしょう、って。」
「いえ、それは・・・。」
「いえいえ、そうなのよ。仮にどんなにあなたのことがいいからといっても宏子さんのことを見捨てていいなんて有り得ないわ。結婚とはそういうものなの。失礼だけど、奈々子さんはまだだから分からないかもしれないけど、結婚っていうものは一人を選ぶことなの。つまりその一人以外をみんな捨ててしまうことなの。あの子は宏子さんを選んだのだからもう他を選ぶことはないの。」
「・・・」
「それにこんなこと言いたくないけど、40近い病気持ちのあの子と大学生で健常者の奈々子さんでは条件が違いすぎるわ。好きなもの同士なら誰でもいい、なんてことはないと私思うの。恋愛には責任が伴うわ。ましてや結婚となったら、結婚は一生のことだからできる限り釣り合いというか対等な立場でないと許されないと思う。あなたがどこまで健二のことを想っていたのかは分からないけど。」
「わ、私は健二さんのことが好きでした。恋をしていました。」
「ありがとう。でも恋愛はあなたが思うほど自由なものではないわ。許されない恋愛だってある。あなたの健二への思いは純粋でまっすぐなものだけど、許されるものではないの。」
「・・・」
「私も一人の人間、女だから数多く恋愛はしてきたわ。結婚する前はもちろんだし、結婚してからも気になる人がいたりして。でもね、奈々子さん。どんなに強い思いでも届かないこと、届くべきでないこともあるのよ。」
健二の母はさらに続けた。
「本当にごめんなさい。あなたに説教なんか垂れて。でもこれだけはあなたに託すわ。」
と、奈々子に封書を差し出した。
「健二の部屋に何通もあったの。これはそのうちの一通なんだけど、封してなかったから私読んじゃったけど。奈々子さん宛に書いたものらしいの。読んであげて。健二なりのまっすぐな思いだから。」
奈々子はためらったが、恐る恐る受け取った。
「本当にごめんなさい。でもありがとう。あの子のことを好きだと言ってくれて。本当にうれしいわ。」
二人はあいさつを交わし、分かれた。
十七
藤野 奈々子 様
前略 ふれあい園にはまったくお見えにならなくなりましたね。いかがされているのか心配です。ここのメンバーもスタッフもみんなあなたの復帰を待っていますよ。本来ならもっと早くにこうしたお手紙を送るべきでしたが、そうする勇気が私にはありませんでした。実際こんな手紙を何度も書いては出せずにいたものですから。
年甲斐もなく、あなたに惚れていました。あなたとお近づきになってすぐにあなたのことが好きになり、私は必死であなたのことを考えないようにしました。すべては妻の宏子のため、自分に言い聞かせました。それはある程度まではうまくいったと自覚しています。しかし、完璧には出来ませんでした。母も私があなたに好意を持つことには反対でした。しかし、あなたへの思いは日に日に強くなりました。
私は怖ろしいくらいの自惚れ屋です。あなたが私に好意をお持ちだと勝手に解釈していました。あなたがわざわざ私と同じG大学の経済学部に進学したこと、ふれあい園にアルバイトに来られた事実からそう解釈しました。でもその解釈に完全な自信を持てなかったので、もし好意を持っておられたら私はどんなに幸せだろう、そんなふうに思っていました。
それだけに初夏のあの海で告白を受けたことは本当に喜びでした。驚きでした。ですが、宏子のため、とあなたに素直になれませんでした。素直になれなかったことは本当に大きな損失であり、悔やんでも悔やみきれないことであります。
しかし、あなたの愛を素直に受け入れていたとしたら!宏子があまりにもいかわいそうです。宏子は何もかも私に頼りきっています。私を愛し、信じきっています。やはり私も妻を愛しています。あなたとのことがあったとしてもです。この矛盾から逃れることが出来ないのです。宏子を恨みすらしました。宏子がいなくなってしまえば、とも思いました。でもすべては私の自分勝手な妄想でした。
あなたもふれあい園を離れ、私からも離れられました。そうすることが自然な道だったことでしょう。私にはつらいことですが、今はそれを支持してみたく思います。もし私から離れたことをあなたが少しでもつらい、と感じられたらそれはとてもうれしいことです。
しかしあなたはまだ若い。洋々たる未来があります。無限の可能性がある方です。きっともっとあなたにふさわしい方がいるのだと思います。一回り以上も年上で病気持ちの私なんかより、もっとふさわしいその方との本当の幸せを今は願います。あなたを獲得することは出来ない、しかし喪失することも出来ない。そんな私にとって今のこのあなたと会えない無味乾燥な日々は私の最後の選択肢だったように思えます。さようなら。私より幸せになってください。
敬具
朝倉 健二
日付は二年前の7月7日になっていた。あの潮干狩りの約1ヵ月後で、7月7日は奈々子の誕生日だ。健二はそのことを意識して書いたのかも知れない。奈々子は一気に読み上げると、少し泣いた。健二の葬儀のときに出なかった涙が今出たようだった。
「健二さん・・・」
奈々子は無性に健二のことが懐かしくなった。健二に会いたくなった。そして失ってはならないものを失ったと思った。涙のしずくが手紙に落ちた。やがて嗚咽に変わった。
公認会計士の試験の結果が分かった。奈々子は晴れて合格した。後で人づてに聞いたのだが、健二も合格していたらしいと聞いた。
大手監査法人への就職も決まった奈々子。2年以上ぶりにふれあい園に復帰した。中川さんからの強い要請があったのだ。朝倉君の遺志を継ぐつもりで来てほしい、と。アルバイトではなく、健二と同じボランティアとして再度ふれあい園に加わった。これには中川さんをはじめ山本さん・石川さん・宏子・そしてメンバー全員が歓迎した。
終