フランスといえばやはり、1789年の「フランス革命」をまっさきに連想する人の方が多いかもしれない。“パリの魅惑”と題して大きい花を咲かせたものの一つに、先に何回も取り上げたオスマンのパリ改造計画がいいネタになったと思う。しかし小さな花びらが寄り集まって咲く花のようなものを考えるならば、18世紀にパリで花開くカフェ文化についても見ておくべきかも知れない。
近代、ルネサンスで文化的運動が花開くが、そのもとはイタリアに遡れる。パリでやっていたサロンも、パリで有名な絵画展への道筋を作るために、一種の勲章制度を設けたりして、フランスっぽい展覧会を作るも、結局は権威主義的なものになっていた、ということは紹介した。一重にフランス文化もフランスだけのパワー(force. f.)があってのことではないことに注目したのだった。
カフェ文化も同じで、盛んになるのは18世紀、ルイ16世が処刑される世紀のこと。カフェでは毎晩、世間話から政治批評、痴話話などが繰り返された。モンマルトルに現存するカフェ、La maison roseなどは、画家たちの芸術論を展開する場としても有名だ。ある意味ギリシャ時代のアゴラ(広場)的な役割になっていたのだった。そこからカフェは“フランス革命の温床”という代名詞を持つことになる。コーヒーは昔、魔術的な飲み物として、呪術のときに重宝された。つまりカフェインの“眠くなりずらい”というところから“魔術的”につながってゆくのだ。
「街かどに生まれた小さな空間は、あるいは社交の、政治の、芸術の舞台となって、パリの成熟を支えることになる」(『パリ物語』pp.91-92)
カフェ文化の発達に伴って、夜の街にも人が増えた、という訳ではないだろうが、ここで「街灯」についても考えていきたいと思う。
16世紀になると、各戸の窓外に蝋燭を灯すことが義務付けられた。その他にも夜間にランタンを灯すなどした。17世紀にランプが改良され、道路に網を張り巡らせて、その中央に灯を吊るす方式がとられる。フランス革命の頃の街路照明図をみると、あまりにもひ弱そうに見えて、本当にこんなことをしていたのだろうか? と疑いたくなる(ちなみにフランス革命時の流行歌《Ça ira.》のルフラン部分に以下の節がある。《Les aristocrats à la lanterne! 》貴族は街灯に吊るせ! ちなみに、à la lanterne. は縛り首にしろ! という熟語として存在しているとかいないとか・・・)。ただ、夜になり漆黒の闇が町を覆っていると考えると、防犯上よろしくないということに気づく。バスチーユ広場にあった今はなき象のモニュメントが、知らぬ間に盗賊たちの巣窟になるような時代だから尚更だ。1662年には、ランタン持ち(port lanterne)の出現も見過ごせない。パリ市内に徐々に街灯が増えているけれど、さすがに全域をカバーできていなかったことを思わせる事象だ。
「十六世紀になると、夜間この街を悪党どもの危険から護るために、「九時から十二時まで各家々では、かならず窓の一つをランプであかあかと照らすこと。それもかならず二階の窓であるべし」というお触れが出された。だが、このお触れはほとんどまったく守られることがなかった。そこで一五五八年には、ランプで照らすのは数軒おきでよろしい、と改正されたが、もちろんこれも功奏せず、パリの街には、翌朝になると市中で毎日平均一五の死体が見つかったという。ついで「街角にはそれぞれ夜の一〇時から朝の四時まで街灯を灯すべし、長い通りは暗いので通りの中央に角灯をおくこと」と決められた。」(『パリ 歴史の風景』pp.234-235)
19世紀になるとガス灯が企業化され、町並みに用いられる。日本でも1872年から横浜を皮切りにガス灯が設置されてくる。東京にいると、夜でも町が明るいという風にしか捉えることができない。けれど月も見えず、夜を迎えたときの暗さを想像してみたりすると、このイルミネーションがどれだけ功を奏すものが計り知れるような気がする。
(参考図書)
・饗庭孝男編『パリ 歴史の風景』山川出版社、1997.
・武蔵大学人文学部ヨーロッパ比較文化学科編『ヨーロッパ学入門』朝日出版社、2005.
・石井洋二郎『パリ -都市の記憶を探る』ちくま新書、1997.
・宝木範義『パリ物語』講談社学術文庫、2005.
・中野隆生編『都市空間の社会史 日本とフランス』山川出版社、2004.
・谷川稔、渡辺和行編著『近代フランスの歴史』ミネルヴァ書房、2006.