Entre ciel et terre

意訳して「宙ぶらりん」。最近、暇があるときに過去log整理をはじめています。令和ver. に手直し中。

パリについて(4)

2007年05月25日 | 日々雑感


「歴史とは過去との対話である」・・・こんなことをイギリスの歴史家E・H・カーは言っていたのではなかったか、とふと思い出しました。
 ゼミの発表の資料整理、と位置付けて印象派の時代を調べていた管理人でしたが、歴史的な背景も調べているうちに面白いことが分かってきて、今も中島みゆきの夜会を鑑賞しながら筆を運んでいる。
 19世紀のフランスは、前にも述べたと思うが、歴史的な転換点だったといえよう。それは1789年の大革命とはまた一味違う、山椒のような刺激の「文化的転換点」だったといえるかもしれない。

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 以前、「石」の文化と「鉄」の文化という話をしたと思う。これは単純に言ってしまえば、時代の流れでイギリスから起こる「産業革命」の余波がフランスにも到来することで、1837年までパリ、リヨンを中心として一部区間しか開通していなかった鉄道が、1860年にもなるとほぼ現在のTGV(train à grande vitesse)路線図のようになってくる。

「帝位についたナポレオンⅢ世は、産業近代化路線の柱として、鉄道・道路建設をはじめとする公共土木事業と金融システムの改革をかかげ、まず鉄道開通事業の再編に着手した。1857年には、七月王政期に33あった鉄道会社を6社に整理統合し、パリを中心に放射線状にひろがる全国幹線網の整備をいっそう推し進めた」(『近代フランスの歴史』pp.131-132)

フランス内部の鉄道網が整備されてくれば、それだけ人の移動というのも多くなる。ゆえにこれも印象派が何故パリに集ったのか? という謎を解く鍵になりそうだ(もっとも1番のポイントはパリで行われていた「サロン展」の影響だろうが)。鉄道といえば、現在のオルセー美術館は、かつてオルセー駅という駅舎でパリとボルドー、レンヌ、オルレアン方面を繋いでいたということを忘れてはいけない。そして印象派画家たちの絵がオルセー美術館に多く展示されているのも、何かの縁があってなのか、関連性も面白い。

 さて、今、引用文に「七月王政」という言葉が出てきた。管理人の乏しい知識と、高校世界史の教科書を手繰り寄せながら見直すとすれば、ナポレオン帝国が崩壊し、革命以来の王政がたつことになる。このルイ18世がたてた王朝が七月王政で、その後もシャルル10世に引き継がれる。こんな国政のなかで、ルイ=フィリップという自由主義者が、七月革命に便乗して王となる。この王政が1830年頃で、ようは産業革命の発達し始める時期と被ってくる。とは言え、パリの町並みはまだまだ革命期のような雑然としたもので、「オスマン化のパリ」と呼ばれるにあと数十年ほど待たなくてはいけない。パリの町並みの乱雑さは、ゾラの『パリの胃袋』もそうだが、1840年代のパリを描写していると思われるユゴーの『レ・ミゼラブル』も読んでみると面白い。
 特にこの小説の中には、バスチーユ広場にかつてあった「象のモニュメント」のことについて、盗賊たちの隠れ家とまで書かれているのだ(詳しい箇所を見つけられず・・・不覚に思う管理人)。この「象のモニュメント」、実はナポレオンによる凱旋門建築の最初の予定地だったとか。しかし地盤の悪さなどを理由に、今あるエトワール広場にそれは建てられ、バスチーユには象の噴水を建設することを考える(TOP画像)。(ふと思ったが、バスチーユには新オペラ座なるものはなかったか・・・? 果たして本当に地盤の理由だけだったのだろうか?)何故、象だったのだろうか? なんとなく現代人の感覚としては、JR上野駅にあるようなジャンボパンダのマスコット的な感じに見えてしまうかもしれない。けれども当時はまだまだ象を簡単に見る機会はないはずなので、庶民の目を引いたのは間違いないだろう。バスチーユ自体は革命の歴史があるし、ナポレオンが造らせたということから、(象を造ったのには)どうやら遠征との関連性をもあるような気がする。バスチーユに聳える円柱の下には、七月革命の犠牲者が眠っている。円柱自体は1840-41年に建てられる。しかしこのときもまだ「象」が健在していた。現存していないのが、とても残念に思える。
1848年、選挙法の改正を求めて、パリで暴動が起こるとルイ=フィリップはイギリスに亡命、第二共和制が誕生する。六月暴動などを経て、ここでようやくナポレオンⅢ世の第二帝政(1852.)が始動する。
ナポレオンⅢ世は、前からチョクチョク登場しているので名前に聞き覚えのある人があるかもしれない。ナポレオンのように戦を乗り越えては、信頼を得ていった人物ともいえる。ただ彼の退廃原因ともなった普仏戦争で、彼の勢力は一気に瓦解してしまう(退位、1870.9.)さらには1871年に起こるパリ=コミューンの事件が、何とも19世紀フランスの転換点を語る上で避けては通れないもののような気がしてならない。くしくも8年後には「ラ・マルセイエーズ」が国家となり、9年後(1880年)には7月14日が国民祭日となり、1889年5月5日にはパリ万博の幕が開く(さりげなくフランス革命百周年というものも潜んでいる)。エッフェル塔も完成し、「鉄の貴婦人」がパリにすっくと腰を下ろすようになったのだ。
 こんな時代の変化に、目もくれたくないのに目をやらざるを得ない環境で、印象派は己の思想を貫き絵を描いていたというのか(確かにモネはアルジェリア遠征にも参加していたりするが・・・)。そんな疑問がふつふつと沸き起こり、さらにパリの歴史に、魅力の虜になっている気がしてならない。





(参考図書、URL)
・石田昭夫『パリの風景・・・エッフェル塔とサクレ=クール聖堂』スキピオの夢(LE REVE DE SCIPION):http://scipion.blog60.fc2.com/blog-entry-60.html
・江上波夫、山本達郎、林健太郎、成瀬治『詳説 世界史 改訂版』山川出版社、2003.
・宝木範義『パリ物語』講談社学術文庫、2005.
・谷川稔、渡辺和行編著『近代フランスの歴史』ミネルヴァ書房、2006.


2 コメント

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J'ai trouvé une erreur! (スキピオ)
2007-06-20 18:26:48
こんにちは。
がんばってますね。
でも一つ間違いを見つけました。参考図書、URLの「石田昭夫」は「明生」です。よろしく。
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Oh la la! Je suis desole! (管理人)
2007-06-20 22:19:10
>スキピオ様
あららら・・・失礼な間違いをしてしまいました!
スキピオさんも最近忙しそうで・・・(ブログがあんまし更新されていないので(苦笑))
夏休みに向けて、お互いの世界で頑張り所というところでしょうか。
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