ルーブル宮の目の前に、エトワール広場の凱旋門よりも小ぶりなカルーゼル凱旋門が見える。そこをくぐり抜けると、目の前には広大なチュイルリー公園が広がっている。いろいろな銅像があったりで、日曜の昼下がりにはパリの散歩好きが集る場所になっている。チュイルリー公園からシャンゼリゼ通りの一本道の美しさ、その上、少し小高い位置にある凱旋門の堂々とした姿。夕暮れ時には見初めてしまうほどだ。
チュイルリー公園は、なぜあんなに広いのだろう。もともとは王宮のための植物園だったという話をよく聞く。だからなのか、チュイルリー公園の一角に、こじんまりとした建物がある。オランジュリー美術館だ。ここのオランジュリーとは、オレンジの木のこと。チュイルリー公園がかつて、植物園だったことを思わせるような名前だ。この美術館にで、印象派の画家の一人で有名なクロード・モネ(Claud Monet)の連作『睡蓮』を見ることができる。
オルセー美術館の外から、セーヌに目を移すと、向かいにコンコルド広場のオベリスクがうかがえ、右隣りにオランジュリーの姿を見ることができる。セーヌ川沿いには、至るところにブキニスト(bouquiniste)が存在し、古本や絵はがき、ポスター、ちょっとしたおみやげ物とかを売っている。実はこの仕事、歴史ある商売で、時代によっては専業的な扱いを受けたこともあった。
パリはセーヌ川を中心に、荷揚げがされた場所でもある。17世紀のパリ市内図を見てみると、まるでイタリア・ヴェネツィアにあるポント・ヴェッキオのような光景を目にすることができる。現在のパリ市内では失われた光景だ。
ここからいきなり、恐ろしい想像を働かせて見る。それは、フランスがイタリアのマネをしていたのではないか? ということだ。
そもそも中世フランスでは、王家がイタリア文化を取り入れるのが流行する。それが形となって現われてくるのが、トゥーレーヌ(Touraine)にある古城の数々。レオナルド・ダ・ヴィンチが設計したとされるシャンボール、そして彼が晩年を過ごしたとされるクロ・リュセ、その他にも王家の城々、たとえばアンボワーズ、シュノンソー、アゼ・ル・リドーなどなど...。
フランスという国は、近代にいたるまでイタリアの影響を受けてきたと、一理いえるかもしれない。特に美術の面でその面が伺える。1860年代頃から起こる印象派の運動も、もとはと言えば官展(salon)に対するものだった。官展ではまだまだイタリア美術が取り沙汰されていた。ということは、ヴィーナス像以外の裸体婦像などは「ありえない」という感覚が一般的だった。印象派と呼ばれる人たちは、この婦像に限らず「ありえない」絵を描くような人たちだった。ゆえにサロンで受け入れられることなく、落選に落選を期したのだった。
「こうして19世紀のサロン展は、いつしか権威主義の牙城となり、芸術の場から遠ざかっていった。1863年のサロン展は特に審査が厳しく、新しい試みを体現したものをはじめとして、3000人の画家が出品した5000点の絵の、実に3000点が落選させられてしまった」(『パリ物語』p.174)
そんな落選グループに、ある意味で光の手を差し伸べた人物がナポレオン3世という伝説が残っている。彼は落選者たちの絵を何枚か買ったり、彼らのために展覧会を開く場所を作ったとか。この時代の、時の皇帝がなぜこんなことをしたのだろうか? と考えると、印象派にはある意味色々な要因の折り重なりが見えてくるような気がする。
(図書案内)
・饗庭孝男編『パリ 歴史の風景』山川出版社、1997.
・高階秀爾『フランス絵画史』講談社学術文庫、1990.
・宝木範義『パリ物語』講談社学術文庫、2005.
・モーリス・セリュラス『印象派』平岡昇、丸山尚一共訳、文庫クセジュ、1962.
・吉川節子『巴里・印象派・日本 -"開拓者"たちの真実-』日本経済新聞社、2005.