Entre ciel et terre

意訳して「宙ぶらりん」。最近、暇があるときに過去log整理をはじめています。令和ver. に手直し中。

ドラえもんde心理学

2006年12月06日 | 日々雑感



今日は某授業での発表当番でした。

けれど、やってくれましたね、Oたけさん。遅刻です。

私のぐだぐだ~な発表の仕方なみにやってくれましたw

8:30に「今、家を出た」はさすがです(・∀・`)フッ

8:45くらいから発表はじめ。

まぁ、先生は気を遣ってくれてこんなにも延ばしてくれましたwww

ありがとう、先生!



僕はのび太から見る「甘え」についての発表。

簡単に言うと「甘え」は図で書くと「甘える側」と「甘えられる側」が相補的になる関係のことが多く、この関係にない場合はどちらか一方の「甘え」とは感じないこともあります。のび太が「甘える側」なら「甘えられる側」はドラえもんです。

思えばこの二人(一人と一台?)は 相補的に暮らしています。

だから甘えの関係が成立している、みたいな。



例えばイギリスでは 昔 親が子ども(恐らく乳児)を公園で遊ばせるとき

親が子どもに首輪をつけさせた、という話は有名で これは「甘え」が海を超えると
「依存」や「愛着」というような捉え方になってしまいます。

これは英和辞典などで「甘え」をひいてみると分かり易いです。



結論:のび太はドラえもんに確かに「甘え」ていた。
けれど普通は母親に甘えることがおおい。もしかしたらのび太はお婆ちゃんっ子でもあったから 対象喪失とともに ドラえもんの万能的なパワーが新たに甘えさせてくれる対象になったのかも知れない。







「影歌」2006.12.06

僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな風の中でも 僕は歌うことができる
僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな灯りの下でも 僕は歌うことができる

でもいつも歌えないのは 見えない世界の影歌だけ
だから僕は月の下でも 影歌をくちずさめるのさ

僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな風の中でも 僕は歌うことができる
僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな灯りの下でも 僕は歌うことができる

でもいつも歌えないのは まずしすぎる輝きの世界
だから僕は星の下でも 影歌をくちずさめるのさ

僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな風の中でも 僕は歌うことができる
僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな灯りの下でも 僕は歌うことができる

でもいつも歌えないのは でもいつも歌えないのは
見えない世界の影歌だけ まぶしすぎる世界の歌だけ

僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな風の中でも 僕は歌うことができる
僕は影歌歌い 誰も知らない影歌歌い
たとえどんな灯りの下でも 僕は歌うことができる

たとえどんな月の下でも 僕は歌うことができる


コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。