ブログ うつと酒と小説な日々

躁うつ病に悩み、酒を飲みながらも、小説を読み、書く、おじさんの日記

政治あるいは歴史における物語

2018年07月04日 | 文学

 先ごろ、わが国はワールドカップでベルギーに惜敗し、8強進出はなりませんでした。
 それは誠に残念なことですが、今回のワールドカップによるわが国をめぐる物語が、二転三転したことは興味深く感じられます。

 予選リーグでは3連敗を予想する解説者もいるなか、一勝一分け。
   これは物語の始まり。

 しかし、ポーランド戦で、わが国はあえて1点差での負けを選び、10分にも渡って無駄なパスを続け、わが国には、フェアプレーの精神が欠けているだとか、それでも侍か、だとか批判をされて、わが国は予選突破のためにはなんでもやるダーティな国、という物語が生まれたと感じました。


 ところが決勝トーナメントにおいて、ベルギーに善戦したことにより、諦めないチーム、組織力の強いチームという物語が、泣きながらゴミ拾いをするサポーターとともに、美しくよみがえったように感じます。

 私は何度もこのブログで、物語の中にしか真実は存在し得ない、と指摘してきました。

 ことはサッカーのような、実生活にさしたる影響を及ぼさない事柄に限りません。

 大日本帝國はかつて、東亜解放の大義名分を掲げて、太平洋戦争を戦いました。
 今でも、あれは聖戦であったという物語にしがみついている人々がいます。

 ナチス・ドイツにおいても、国家社会主義こそ人類の幸福という物語を信じ、未だに、ネオ・ナチなどがいます。

 また、米国においても、どれだけ悲惨な原爆の映像を見ても、本土決戦を回避できたために、100万人の米国の若者の命を救ったのだという物語に固執する人々がいます。

 その物語が客観的な真実であるかどうかはどうでも良いことで、それを信じることで物語は真実となり、そもそも客観的な真実など存在し得ない、という結論に結びつきます。

 それを信じるかどうか、あるいは信じたいと願うかどうか。
 そこに、真実は密やかに入り込むものであろうと思います。

 


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