時折、なんということもなく、来し方を思い、また今の状況を考え、憂いを帯びることがあります。
中年なればこそ、若い日の愚行は、愚かゆえに懐かしくも感じるもの。
しかし40代半ばの今も、愚行を繰り返して生きていることに変わりはありません。
ただ、愚かさの上に常識の仮面をまとっただけのこと。
時間というのは不思議なもので、確かに起きたことなのに、あらゆる事実が歪められ、あるいは誇張され、また、忘れ去られていきます。
だからこそ歴史学なる学問が生まれ、歴史学者は考古遺物や古い文書などを手掛かりに、昔の姿を再現しようと努めるのでしょう。
しかし、それが確かにそうだったかどうかなんて、分かるはずもありません。
なんとなれば、私たちは半日前のことですら、精確に再現することは出来ないからです。
最近朝日新聞が、従軍慰安婦は旧軍が組織的・強制的に行ったものだとする30年も前の記事を訂正しました。
そういう事実はなかった、あるいはあったかもしれないが確たる証拠はない、と。
その一事をもってしても、過去、この世で行われたことを精確に知ることはできないと得心がいくでしょう。
ゆえに私は、繰り返し、真実は物語の中にしか存在し得ないと言い続けてきたのです。
物語のなかでは、時制は自在に変化し、あるいは過去や未来を行き来してしまいます。
SFでは必須のタイム・トラベラー物というジャンルは根強い人気がありますね。
ハイデッガーは、「存在と時間」のなかで、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張しています。
また現在もそれ自体で生起するのではなく、死へ臨む存在としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものだ、とも。
均質的な過去・現在・未来という時間はこの根源的時間からの派生物にすぎないとして、これらの派生現象を可能にする「根源的な時間性」の概念を提示しています。
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存在と時間(全4冊セット) (岩波文庫) |
マルティン・ハイデッカー,熊野純彦 | |
岩波書店 |
私は西洋哲学には弱いので、正直、きちんと理解しているとは言えません。
しかし少なくとも、時間の不思議を解明しようとしているのは、歴史学や哲学さらには理系の様々な学問など、多様なアプローチがなされているのだな、と感じます。
それら学者の方々のご尽力は多としますが、私はそんなまどろっこしい手法は取りません。
私はただ、神秘的直観、あるいは霊感のような物に頼ることを常とします。
それはしかし、ルドルフ・シュタイナーがアクセス出来たという、宇宙のすべての歴史が記録されたという触れ込みのアカシック・レコードみたいな物へのアクセスを試みるのとは異なります。
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アカシャ年代記より |
高橋 巌 | |
国書刊行会 |
私はひたすら、私が感じるところを信じるのです。
過去を思って憂愁に沈む行為もそうですし、逆に輝かしいであろう未来を想って高揚することもそうです。
もっとも年のせいか、未来を想うこともなくなりましたが。
この不思議な時の流れと、そこにしか存在し得ない私を想う時、私は不思議な高揚感に囚われます。
その高揚をバネに、私が挑んだことの無い小説を執筆しようとしたことが2度、あります。
しかしあまりに難しく、いずれも原稿用紙換算で100枚ちょっとのところで中断したまま、何年も放置しています。
一つは「楽園」、もう一つは「宇宙の光とおかま」というタイトルです。
私は定年を迎えたら、この2つに挑みたいと、今から楽しみにしているのです。
その時こそ、物語の中の真実とは何ぞやということの答えが、私なりに形にできるものと思っています。
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