病気は人生の苦難を乗り切るのと同様の方法で乗り切らねばならないもの
「現代医学は『治療』、すなわち病気を治すことからスタートしています。それがそもそもの間違い・・・」
これは先日紹介した新谷弘実氏の著書「病気にならない生き方」のなかの一節です。
私は医師ではありませんが、多少、医療分野に長く関わっていて、一般の人よりは医療についての造詣が深いという立場から述べさせていただければ、
本来、医療というものは病気を治すためのものではないと考えています。病気がそれ以上進行しないように処置を施すものと考えています。
と言うか、本来、医師には病気を治すことなどできないのです。
病気は、患者自身が自分で治すものです。
医師は、病気の進行を薬という、いわば毒を用いて食い止め、患者にはその対処をアドバイスすることで快復へとサポートする存在です。薬は間違っても半永久的に服用するものではないし、させるものではありません。それなのに、一生薬漬けにしようという医師が世の中には何と多いことか。
世の中の出来事には原因と結果というものが必ずあり、結果は原因を質し、正すために生じてきています。
病気は人生の苦難の一部であり、その存在は人生の苦難克服の法則の域を何ら外れるものではありません。
自分の幸福(健康)も自分で勝ち取るものであり、他人は自分を幸福(健康)にしてくれることはないのです。
その苦難の原因がどこにあるのかを質さずに、ただ医師が薬を与えて症状を抑えるというのは、本来の進化の法則としての宇宙の法則に則らない行為なのです。
これは霊的な憑依現象をただお払いして、一時しのぎに快復させる場合と同じで、憑依を生んでいる心の問題をおざなりにしているわけで、当然また症状が出てきます。そして出てきたら出てきたで、またお払いという「他力本願」に委ねるということで、一向に根本的な解決にはなりません。
自分の外に解決策を委ねているうちは、本人の成長に結び付きません。
因果という意味では病気は一種のカルマそのものであり、カルマは気づきのためにあるもので、それを第3者が勝手に取ってしまうというのは、ある意味情けであり、場合によっては罪にもなります。
最悪、そのカルマを肩代わりしなければならない場合すら出て来ることでしょう(医療行為の場合は、まず患者の「治して欲しい」という意思が先に存在しているので一種の契約となり、医師側の罪にはならないだろう。が、最悪なのは苦しんでいる人が援助を拒否しているのに助けてしまう場合である。罪は動機によって大きく左右される)。 ― つづく ―
いま、会社からご返事していますが・・・
>本来、医療というものは病気を治すためのものではないと考えています。病気がそれ以上進行しないように処置を施すものと考えています。
とは、精神や内臓疾患などを念頭において言っています。
交通事故などのような場合にはアクシデントですので、普段から食事に気をつけたり、酒やタバコを節制したりということでは、防ぐことは出来ません。
吉田さんの場合はまさにそういうことですね。
吉田さんの文書を読んだだけでは疾患の内容がまったくわかりませんし、私は医者ではありませんので物理的なアドバイスはできませんです。
ただ、医者も(もし吉田さんが苦痛のために眠れないのなら)症状がでないようにするために、抑えるためにのみ薬を出しているようにも見受けられます。
症状はなかなか好転しないでしょうね。
いずれにしましても、詳しい状況がわかりませんです。
無責任といわれるかもしれませんが、薬は最小限にして、新しい道をご自分の中から探っていただきたいと思います。
とりあえず、新しい出会いとかヒントの到来をを、自分の中の祈りを通して真剣に祈願してみたらいかがでしょうか。