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まず、見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏の技を、以下参考動画でご覧いただきたい
柳川氏はほとんど視力が無いという、一般的な空手家のイメージ、筋骨隆々とはほど遠い体格
しかし、素人の私が一目見ても、繰り出す技の威力が異常に強いのを感じる
「武道空手」とは実戦前提の空手でスポーツの空手とは異なる、つまり「やるか、やられるか」、「○ろされるかもしれない」という状況のガチで生き残りを懸けた技、ということになる
柳川氏はほとんど視力が無い、加えて体格からして腕力はない、非常に不利ではある、だが実戦で勝ちたい、つまり生き残るには何をすべきだろうか?たどり着いた答えが、これらの技ということになる
超人とはどのような人間で、どうしたらそうなれるのだろうか、おそらくそこには潜在アワ量の異常な蓄積が起因しているのではないだろうか
だとしたら、実践的に、超人式潜在アワ量蓄積術が存在するはずである
よって、武道ド素人ではあるが、今回解説を試みようと思った次第である
武道的感性の高め方
著者 柳川昌弘 株式会社BABジャパン
より敬意を持って引用させていただく 茶色文字部分
柳川昌弘氏略歴
1939年12月9日生まれ。東京理科大学理学部化学科卒業。海上自衛隊勤務、システムエンジニア、企業調査等を経て、最上荷山大荒行入行、僧籍に入る。1967年より、全日本空手道連盟和道会柳川道場を主宰。現在は、日本伝二聖二天流柔術憲法を創設。全世界武道空手連合主宰。
p180 10行
この「心の目的意識」がない場合、「初心忘るべからず」や「継続は力なり」の対象にはなり得ないのである。なぜなら「意」による当面の目的を目指して努力し続けたとしても、あるレベルから先の進歩は全く期侍できないからである。それは「心の目的」を燈台の光に例えれば、大海の荒波の中を彷徨い続け、ついには難破するか、運が良くても無人島に打ち上げられるしかないからである。
あるいはその技芸が一見すぐれているように見えても、燈台なくしては枝道に入るか価値のない我流に終わるしかないだろう。この燈台とは、武蔵のいう「初めからある真実であり、それは作るものでなく思い出すもの」なのである。それは潜在意識の持つ記憶である。
一方、「心の目的」を正しく持つ者はどうであろうか。初心を維持すると共にそれを一段と明確なものへと育ててゆけば、遠からず必ず「心の目的」と「意の目的」とは一体化して、真の道を成就することになろう。これが日本文化の目標であり、「自然体・平常心」を極意とする所以である。
そしてその時、初めて気づくことは、初めはボンヤリとしていた初心 (心の目的)が明確な真実そのものであったこと。また、初心が強い願望のようなものと感じていたが、本当のところ「そうなるという予知であった」と。
言い換えると「心の願望ないし目的と思われたものが、初めからあった「成就した結果におけるフィーリング」に対するものであった、と。さらにいえば、人が先天的に持つ体験上の記憶であった、と気づくのである。それ故に、「人はすでに成りたいものに成っている」といわれるのである。
つまり、人は然るべき結果 (願望の成就)を初めから識っているからこそ、そのための手段 (当面の目的)を正しく選択することが可能なのであり、また努力を尽くすことができるのである。
故に「心の目的」の有無が、その道を成就し得る最大の素質なのである。単なる一生懸命やカー杯の努力だけでは、その道での大成は不可能なのである。先述したように「価値感の多様化」は、かえって自己実現への道を誤る動機となる所以である。その道の結果 (心の目的)を知ることなく、人工的努力をいかに積み上げたとしても、その道の先にあるのは真実(道理)ではなく、幻想であり妄想であることは、現実が十二分に証明している通りである。
それは、この世で理性的 (人工的)に作った一切の〇〇主義や X X哲学、政治的ビジョンといった数々の理想がかつて実現したこともなく、未来永劫成就することがない幻であることを示している。
「感性の世界には、時間の観念が明確でない」から、結果とか原因といった時系列的差別はなく、過去の原因は、即ち現在の結果 (等流因・等流果と呼ぶ)であり、同じもの、同じ思いなのである。感性の思いは初めから結果と同じ思いであり、後に修行を通じて理性がその真実を確認するのである。
p186 2行
感性によって真実を発見することは、あらゆる分野にとって共通の目標である。なぜなら、そこに無限の価値を見い出せるからである。
この無限の価値こそ唯一の価値観とすることが真の人生観でなければならないとし、この人生観に合一する道を鍛練するのが日本文化の特徴である。それは自己実現の道であり、武道も例外ではない。
自己実現が自ずと社会的貢献につながるのは、それが真実なるが故である。そして自己実現には自ずと危機管理の能力が伴うものである。
柳川氏の著書を読んで、感じたことをまとめてみると
1 感受を可能にする、新たな知覚の開拓
2 感受の状態に留まり続ける、新たな知覚の定着
3 感受の状態と身体を連動させる、新たな身体の使い方の開拓
4 1~3をくり返すことで、練度が上がり、精神が高まる
武道、鎮魂行も最終目的は全て同じ、目に見えない存在、潜在意識、カタカムナでいう潜象世界の存在、宇宙、神、と呼ばれる存在とつながることではないだろうか
感受の体験から、精神を高め、生きることの意味、人とは如何に生きるべきか、を知り、さらにまた精神を高める
以前の精神は今より低く、以前の欲求も今より低いということに気が付く
以前の欲求、武道なら試合に勝ちたい、鎮魂なら霊力を高めたい、などは現在の精神性から考えると、以前よりこだわりなく思えてきたり、もしくは欲求自体は変わらないかも知れないが、その欲求のもとの価値観が変わってくるかもしれない
例えば、価値観が、個人の為のものから、世の為のものに変わったなど
武道や鎮魂行は、振り返ってみれば精神を高めるためのきっかけ、手段だったと気が付く、自分に自覚が無かっただけで、無意識の自分は精神を高めるためにはそれらの手段が必要と知っていたとも思える
では、精神が高まったその先にあるものは何だろうか?
それは、おのおのこの世界に、使命、命ミコトを以て、今このタイミングで生まれて来た謎解きが待っていると実感する
そして、その使命、命ミコトは、生まれる前に決められたとしても、決められた理由は、決定より前の経験から導き出されているはずだ
人の寿命を考えれば、少なくとも何十年単位ではなく、何百年単位で計画が練られたことになる、現世の日常に流され続けるか、何百年単位で練られたであろう計画を見つけられるか、その謎解きのヒントは武道や鎮魂法に、さらに、冗談のようだが、アンパンマンの歌詞にもある
何のために 生まれて
何をして 生きるのか
答えられない なんて
そんなのは いやだ!
時は 早く 過ぎる
光る星は 消える
だから 君は 行くんだ
微笑んで
見た目と逆のガチ武道空手家、柳川昌弘氏のシリーズは次回「思わず笑ってしまう柳川氏ガチエピソード集」で最終回となる