葉っぱのニッキ

3月。3.11東日本大震災から12年。

3月に入って、職場で異動される方や御勇退される方、退職される方の発表がありました。

やはり、淋しいですね。

個々に、色々な想いがこみ上げてきます。


卒園式も近づいて来ました。

今年も年長組さんを送り出します。

この仕事に就いてから、一年毎の行事や季節の移り変わりをヒシヒシと感じます。






もうすぐ震災の日です。

3.11を迎えます。

12年経ちました。

震災の年も卯年だったんだ!と改めて思いながら…。

毎年出来る限り、

震災の時刻14:46に黙祷をしています。


先週NHKの南海トラフ地震のドラマを、前編後編観ました。

ドラマを観ながら、東日本大震災の事を思い出していました。

少しずつ人々の記憶から薄れて来ているのかもしれません。
でも、自分にとって一生忘れられない記憶です。

一晩中ずっと、揺れが続いて怖かった事。

被災している自分達は、停電の為にテレビ等のメディア情報がほとんど見られません。

停電で信号機が全くついて無くて、真っ暗だった町。

崩れている建物。

何とも言えない、空気のにおい。

雪が降っていて、とても寒い日でした。

車で少しの間暖をとった時に、
車載テレビから津波の映像が流れて来ました。

その映像は、自衛隊ヘリからのものでした。

映像は、いつもAEONに行く時に通っていた閖上大橋の所で、黒い津波が全てをのみこんで行きました。

テレビの前で、信じられず。

気持ちが悪くなりました。

涙が出そうでした。

歩道橋が落ちている部分があると伝えるラジオを聞き、車を会社の駐車場に置いて徒歩で帰宅しました。

家の中は玄関入口から、全ての物が散乱していました。

ガラスや色んな物が割れていて、足の踏み場が無くて、靴を履かずには歩けない状態でした。

揺れが酷くて怖くて、しばらく2階へ行く事が出来なかったです。

その日は、地区のコミニュティセンターと小学校が避難所になりました。

自分達は、コミニュティセンターで夜を過ごしました。
コンクリートの床は冷たくて、2人で1枚支給された毛布では眠れなかったです。

ラジオを聞いていたら、自分のいる場所からあまり離れていない道路に、ご遺体が100〜200身体か?それ以上津波で流されて倒れていると言っている。

?耳を疑った。

まさか…、

ラジオの誤報?と最初は思ったけれど…それが事実だと知る。

何とも言えない気持ちになりました。

あの時は、俄には信じられなかったです。

この世は終わるのか?自分もここで死んでしまうのかも?と、本気で思いました。

翌朝から自宅に戻り、家の中を片付けはじめました。

翌日、当時大学生だった息子②を岩手県一関市迄迎えに行った夫と息子①。
道路が地盤沈下していたり、あちこち通行止めで運転が大変だったようでした。
夜中に息子②と友達を連れて、無事帰宅しました。

ホッとしました。

我家は、断水にはならなかったのですが、電気は10日、都市ガスは1ヶ月程止まったままで復旧しなかったです。

不便でした。

揺れが止まるまで、毎日服を着たままリビングにザコ寝状態でした。

ひたすら、家の中を片付けていました。

ガソリン不足で、スタンドに長蛇の列だったのも、
灯油のポリ缶を持って息子②とガソリンスタンドに並び、1人10ℓしか売ってもらえなかったのも、震災の思い出です。


当時の同僚が、早番で帰り奥さんと共に津波に流されて亡くなっています。

今年は、13回忌ですね。



14:46に黙祷します。


コメント一覧

tosiyoko0845
sayusayu_008様
はじめまして、フォローさせて頂きました。いいねありがとうございます。
こちらこそよろしくお願いします。
sayusayu_008
初めまして
フォローありがとうございます。

まもなく13年目のあの日になりますね・・・。
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