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支流からの眺め

富士山(4)山岳信仰と修験道

 山岳信仰とは山を神聖視する信仰だ。その基盤には、巨大な造作や自然の脅威への畏怖、水・動植物・資源などの恵みへの感謝、死者や祖先の魂の依り所としての敬拝などがある。加えて、世俗との隔絶、霊や神仏の臨在感、冷気や清流の清浄感が、登拝に伴う身体的な苦痛と共に精神を高揚させる。

 この古神道的な自然崇拝(神奈備)は、自然の中に仏性を求める密教の世界観にも適合する。ここに陰陽道の呪術や道教の神仙術の神秘的要素も加わり、修験道が生まれた。山岳崇拝と他の多くの宗教を習合させた日本独自の宗教なのだ。開祖は飛鳥時代の役小角とされるが、その人物像は謎に包まれている。

 修験道場では、神社に別当寺(神宮寺)、寺院に鎮守社を設け、祭神と本地仏が習合した(仏が神の姿となった)権現・明神を祀った。修験者(山伏)は山中の修行で得た験力をもって衆生の救済(菩薩道)を目指した。山伏は出家せず在家のままだが、仏教系の宗教として全国の山岳に広がった。

 その教えの底流には「人には本来仏性が備わっているが、それが煩悩で曇らされている。その曇りを晴らせば清らかな本心に復し生まれ変わる。」のような性善説がある。各地の独自の宗派は、江戸時代に熊野の本山派(天台系、総本山は聖護院)と吉野の当山派(真言系、醍醐寺)の二派に集約された。

 修験教団は中世に軍団ともなり、近世には講などの大衆運動を興して栄えた。しかし、維新早々の明治元年には神仏分離令が発された。この発令の背景には、国学の隆盛から尊王思想や復古主義が高まり、明治政府が国家の精神的支柱を古代から続く神道に求めたことがあった。

 この発令に、寺請制度に対する民衆の反感や神官の仏教側への鬱憤が加わり、廃仏毀釈が起こった。毀釈は全国に広がり、修験道を含む仏教関係の建築物、鐘楼、仏像などが破却された。金属の略奪を謀った藩もあった。その結果だろう、現代の山岳信仰には寺院の影が薄い。

 更に明治5年には修験禁止令が発され、権現は廃され布教や祈祷も禁止された。山伏は還俗し、僧や神官にもなり、教派は仏教色を薄め教派神道に変貌した。戦後は各山・各派は宗教法人として復活したが、往時の勢いはない。それでも、日本の宗教観や登山文化には修験道の精神が色濃く残っている。(続く)

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