真緑の☆ぶるぅパンツぁー!

日々思ったことを書きます。

ツイッターのルール変更

2015-06-12 18:43:52 | 日記

ツイッターのダイレクト・メッセージまわりのルールが、相次いで変更になるらしい。

第一にフォローしていない相手からもダイレクト・メッセージが受信できるようになった。
これは既に仕様変更済みだ。

ただし、
「設定」→「セキュリティとプライバシー」から、
「すべてのユーザーからダイレクトメッセージを受信する」にチェックを入れなくてはいけない。

デフォルトでは無効になっている。

つまり一般の人にはオススメしないけど、無制限にダイレクト・メッセージを受け取りたい人は、どうぞ、というスタンスだろう。

企業アカウントの管理者にとっては便利になったかもしれない。

第二に……信じられないことに……ダイレクト・メッセージに限り、140文字の制限が、この7月から解除されるらしい。

これは、ちょっと、ツイッターの存在意義に関わるルール変更かもしれない。

まあ、ツイッター運営者側としては「あくまでダイレクト・メッセージに限っての話ですよ」というスタンスなのだろうが……。

一説によると、文字ベースのリアルタイム・コミュニケーション・ツールとして、最近ツイッターは「ライン」にシェアを奪われ始めているらしい。

私個人は、正直、今のところラインの必要性を感じていないので手を出してはいないが、職場の若い女性たちなんかは、暇さえあればラインと言う感じで、ひところの「若者はみんな、いつでも、どこでもツイッター」から「若者はみんな、いつでも、どこでもライン」という感じになりはじめている。

このことに、ツイッター運営者側が危機感を募らせていても不思議ではない。

もともとツイッターと言うのは、相手を選ばず全世界にツイートを発信するというのが本分で、
ダイレクト・メッセージというのは、メインのツイート機能のオプション的な、おまけ機能だったわけだが、今回それを強化して、1対1、あるいは、多対1の比較的、小範囲・高密度なコミュニケーション機能を強化する策に出たわけだ。

つまりダイレクト・メッセージを「ツイッターの使い方の一つ」から「独立した機能」へ格上げするというわけだ。

フェイスブックも、アメリカなんかでも10代の若者を中心に興味が薄れ始めているというし、この業界の諸行無常・盛者必衰、おごれる者も久しからず状態は、相変わらずだなあと改めて思う。

あるサービスが始まる→
その時点での若者が飛びつく→
やがて、その若者も成長しユーザーの高齢化が始まる→
別のサービスが始まる→
その時点での若者が飛びつく
……以下、無限サイクル

と、いった所か。

ブランド品とは、大量生産品のことだ。

2015-06-12 16:38:15 | 日記

聞いた話だと、今どきの女子高生(こう言う書き方したら、もうオッサンだよなぁ)のアイフォン所有率は、80%なんだそうだ。
その理由が「アンドロイドなんてカッコ悪くて持っていられない」からなんだそうだ。

「くっだらねぇ」と思いつつ、自分の高校時代を振り返ってみても、似たようなもんだったな。
高校生ってバカなのよ。今も昔も。

オジサンの高校時代は「アディダス」だったな。
アディダスの靴を履いて登校すると、それだけで人間としての価値が上がった気がしてたんだな。
アディダス持っていない時は「小遣い貯めて、いつかアディダス買うんだ」って思ってた。
今にして思えば、笑っちゃうような話だけど。

それから、何年かたって、20代の頃に猛威を振るったのが「ナイキ・エアマックス95」っていう靴。
オジサンは、そのとき既に大人になっていたから、この「エアマックス騒動」は内心、冷静に見ていたけどね。
俺より5歳くらい若い人には、甘酸っぱい思い出の1つや2つ、ある人も居るんじゃないか。

今じゃ、信じられないけど、今ならせいぜい7~8千円のナイキの靴が、当時プレミアムが付いて何万円という値段で取引されていたんだ。

あまりにプレミアムがついてしまったあげく、エアマックス履いている少年を不良少年たちが襲って強奪する「エアマックス狩り」なんていう社会現象まであった。

「エアマックス95」っていうくらいだから、1995年のことなんだなぁ……
ウィンドウズ95と同い年かぁ……
もう、20年前のことなんだなぁ。
あの時、エアマックスに狂って7千円のスニーカーに7万円出したお金持ちの少年も、それを襲って強奪した不良少年も、皆、等しくオッサンになってるのか。

結局、ブランド品って、夢から覚めてしまえば全てが幻想だってっことだな。


……ここからが、本題……


雑誌なんかでヨーロッパの高級車ブランドの記事なんかを読んでいて思うのは、つくづくヨーロッパ人はブランド商売がうまいなぁ、と。

例えば、服やカバンや靴なんかでもそうだけど、ヨーロッパの有名ブランドが作っているのって、結局は量産品なんだよね。

高級ブランドで、かつ量産品。

なんで、こんな矛盾したことが可能かと言えば、結局、19世紀にヨーロッパが世界に先駆けて近代市民社会かつ大量生産大量消費社会に突入したから、その中で、いかに商売をして利潤を上げていくかというノウハウの蓄積がアジアなどその他の地域に比べて厚いんだろうな。

身もふたもない言い方をすれば、しょせんは大量生産品を、さも「あなたのために作りました。お友達の誰にも、まだお売りしていません」という幻想で売る、そのノウハウが日本人より凄い、と。

その幻想の拡散に一役買っていたのが、20世紀までは、これまた近代大量生産大量消費市民社会の申し子であるマスコミなんだな。ファッション雑誌とかテレビで紹介される一流芸能時の服やアクセサリーとか。ファッション記者の記事とか。

そうすると、そういうマスコミがブランド品をネタにする時も、その対象は大量生産品じゃないとダメなんだ。
「このブランド品は、あなたにとって買う価値がある」というのを何万人という読者に発信して、その何万人という読者にとっても、ある程度のリアリティがないとダメだから。

考えてもみてほしい。
どこぞのヨーロッパの王国の王妃、その王妃様のためだけに1品もののドレスが作られたとしよう。
もちろん、ファッション雑誌としてもニュース的にはそのことを伝えるだろうけど、例えばそれで特集を組んで「このドレスは、読者のみなさんにとっても価値のある選択だろう」などと締めくくったとしても、それを読んだ何万人と言う読者にとっては、何のリアリティも無いでしょう。
だって、絶対に自分の手には入らない1品ものなんだから。

これが、たとえば一年後に「○○王妃レプリカ」として限定生産とかされた時に、初めてファッション雑誌の読者にとって興味の対象となるわけだ。

もちろん、大量生産品だからと言って、品質的に著しく(消費者にバレるほどに)劣っていては駄目だ。
やはり、他の類似品に比べてわずかばかり優れていることは、大事だ。

ブランド品って、結局、
多すぎて、誰もが持っていても駄目だし、
少なすぎて、誰も持っていなくても駄目なんだよな。

モビルスーツに例えると、結果的にアムロ専用機になった1品物のガンダムや、シャア専用のジオングじゃあ、駄目なのよ。どんなに性能が良くても。この世に1つしか無かったらブランド品としては駄目なんだ。

かといって、もちろん、どんなに大量生産されててもジムやザクは、論外。量産されすぎているし、性能も悪すぎる。
ゲルググとかが、ちょうど良いのよ。ブランド品としては。

「おたく、何に乗ってるの? え? ザク?
ま、良いんじゃないかな。
まあ、俺はゲルググに乗せてもらってるよ。
知ってるでしょ? ゲルググ。
この前、配備が始まったばかりの新型MS。
悪いけど、あれ、乗せてもらっちゃった。
……良いよぉ~、ゲルググ。
なんつってもね、使い心地が違うのよ、使い心地が……」

って、言えないと、駄目なんだよね。ブランド品は。

逆に言えば、その点をクリアしてさえいれば、消費者の財布は緩む。
その辺の持って行きかたが、ヨーロッパ人(と、一部のアメリカ人)は、とても上手い。

良く言えば、上手い。
悪く言えば、あざとい。えげつない。ぼったくる。

日本人なんかは、バカ正直だから、こういう、あざとい感じや、えげつない感じや、ぼったくりな感じのモノ作りが小っ恥ずかしくて、どうしても、ブランドの構築において最後の詰めが甘くなるんだろうな。心理的ブレーキが掛かって。