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【雑報】映画「ほかいびと 伊那の井月」(北村皆雄監督)東京上映開始

2012-03-25 02:41:48 | 高森光季>その他

 「霊学」とは関係ありませんが、関係者に知り合いがいるものですから、紹介させていただきます。(ステルスマーケットではありませんw)

 井上井月(いのうえ・せいげつ)は、幕末から明治にかけて、伊那地方で「一処不住」の漂白生活を続けた俳人です。越後長岡の武家出身のようですが、30代に突然伊那に現われ、過去を一切語ることなく、30年間の流浪を続け、同地で没しました。芥川龍之介が着目、種田山頭火が師と仰ぎ、つげ義春も漫画化しています。
 映画「ほかいびと」は、井月の生涯を、綿密な調査をもとに「ドキュメント&ノンフィクション」として描いたものです。主演は田中泯+伊那の人々、音楽:一柳慧、語り:樹木希林。


井上井月顕彰会ブログ「ほかいびと」から)


 昨日見てきました。もう一度見たいです。
 とにかく伊那の自然が美しいです。中央アルプスと南アルプスに囲まれた盆地の四季がみずみずしく描かれています。秀麗な山が見える土地というのは、なんと素晴らしいか(関東平野はなんと様にならない土地か)。
 また、扱われている民俗芸能・儀礼が味わい深いです。高遠囃子、獅子舞、お盆の魂迎え、送り火の「百八灯」、そして「おかげまいり」の復元(これはすごい)、「鉢叩き」や「阿呆陀羅経読み」といった流浪芸人……
 静かで淡々とした描写なので、なかなか一般受けはしないかもしれませんが、俳句ファン、日本の民俗芸能ファン、そして日本の自然や土着文化を愛する人には、心打たれるものがあるはずです。
 ご興味のある方はぜひ。


百八灯(井上井月顕彰会ブログ「ほかいびと」から)


上映データ
ポレポレ東中野:中野区東中野4-4-1 03-3371-0088
2012年3月24日~4月6日 10:30/13:00/15:30/18:30 (上映時間119分)
料金:1700円(学生・シニア割引あり)

      *      *      *

 井月は芭蕉に憧れていたようですが、なぜ故郷を捨て伊那に来たのかは不明です。またなぜ伊那から出なかったのか(諸国を旅して回らなかったか)も不明です。
 「一処不住」というのは、つまり棲み家を持たないということですが、野宿をしたり、神社のお堂で寝たり、そして迎えてくれる人があればそこに泊まらせてもらい、ということで、これはそうとう厳しい生活だと思います。鴨長明のように、組み立て・移動式小屋でも持てばと思うのですが、なぜかそうしなかった。伊那という寒冷な土地でよく死ななかったものだと思います。
 食事を恵んでもらえた(俳句や書と引き替えに)時はいいですが、そうでない時の煮炊きはどうしていたのか。
 着の身着のままでしょうから、泊まらせてもらうにしても、臭くて汚くて、布団には寝かせてもらえなかったのではないか。土間の片隅で筵にくるまって寝たのか。まあ、「俳句の弟子」がいれば、そこで風呂に入らせてもらったりすることはできたかもしれませんが。
 どんな生活だったのか、なかなか想像できませんが、それを30年も続けるとは……

 映画の後半は、明治の近代化が進み、流浪の民が生きにくくなっていく、その中で井月も村人から疎まれていく、といういささか鬱展開になっていきます。
 そして井月は、酒で身を傷めるようになり、糞まみれで峠道に倒れているのを発見される。最後は、パトロンに戸籍を作ってもらい、あばら屋に住まわせてもらい、そこで弟子や支援者に囲まれて死ぬ。
 なんか、場違いな感想ですが、人間というのは、なかなかすっきりと死ねないものだなあ、と。
 峻厳な一処不住を貫いた人なら、村人から疎まれ始めた段階で、すっとそのまま、村はずれの桜の木の下で冷たくなっている、というふうに行くのかと思っていたら、そうではない。山奥に庵を建てて籠もって枯死するというのでもない。この死に方も不思議といえば不思議です。


 俳句(創作と人々に与える「言祝ぎ(ことほぎ)」との両面があったようですが)だけで生きた人間がいた。それ以外は何もない人生。富も名声も住み処も家族も過去も未来もない人生。
 でも、その「何もなさ」が、素晴らしく衝撃的なわけです。俳句すらも、その「何もなさ」を際立たせるためのものでしかないのかもしれません。
 この映画の前半も、淡々と伊那の自然が描かれ、「何もない」空間・時間が立ち昇ってきます。その「何もなさ」を味わうのは心地よい。
 都会には、近代の生活空間には、「何もない」ところはない。すべてのところに人の思いや計算や欲得が張り巡らされています。
 私たちの心もそうです。「何もない」時間・空間を経験することはめったにない。
 でも、「何もない」ところに、何かがほの見える、何かが降りて来るのではないでしょうか。「何もない」ところがあるがゆえに、「ある」ものは適切さとバランスを保てるのではないでしょうか。

 2ちゃんねるにこんな書き込みがありました。「70年代80年代と90年代以降の変化の違い」というスレッドです。

120: 名前は誰も知らない:2010/07/16(金) 23:26:17 ID:Jtb8dCHB0
  なんていうか、真の静寂みたいのが無くなったな。
  今は真夜中でもネットつなげば誰かとつながる。
  昔は、悪夢で目が覚めても、テレビもラジオも放送終了で
  誰とも繋がらず、やり場のない孤独感や恐怖感を抱えたまま
  時を過ごす、みたいのがあったな。

121: 名前は誰も知らない:2010/07/16(金) 23:36:52 ID:pbzoPMIC0
  >>120
  そのとおりだよね
  空白がない時代。もうなにがなんでも空白を埋めてしまう
  空白の良さ、というものは絶対にあったのに


 「何もない」こと、「空白」を、私たちは少し取り戻す必要があるのかもしれません。
 (ぼうっと山を眺めて一日を過ごしたいなあ。)


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