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【霊学概論】(35)真理の絶対性と宗教の相対性

2011-07-18 00:24:15 | 高森光季>霊学概論

◆真理の絶対性と宗教の相対性

 超越世界や超越存在を認めない唯物論では、宗教とは、死の不安の宥和や世界の統一的把握のために、人間がその文化風土に合わせて作り上げてきたものだと捉える。だが、霊界からの働きかけを認めると、事態はまったく異なって見える。
 霊学的に言えば、諸宗教は霊的存在からの啓示に淵源がある。それに人間的な歪曲が加わって諸宗教の様々な姿が生じてくる。地上の人間が起源なのではなく、「上」が起源なのである。
 《啓示は神より与えられる。神の真理であるという意味において、ある時代の啓示が別の時代の啓示と矛盾するということは有り得ぬ。ただし、その真理は常に時代の要請と、その時代の人間の受け入れ能力に応じたものが授けられる。一見矛盾するかに映ずるのは真理そのものではなく、人間の心に原因がある。人間は単純素朴では満足せず、何やら複雑なるものを混入しては折角の品質を落とし、勝手な推論と思惑とで上塗りをする。時の経過と共にいつしか当初の神の啓示とは似ても似つかぬものとなってしまう。矛盾すると同時に不純であり、この世的なものとなり果てる。やがてまた新しき啓示が与えられる。が、その時はもはやそれをそのまま当てはめる環境ではなくなっている。古き啓示の上に築き上げられた迷信の数々をまず取り崩さねばならぬ。新しきものを加える前に異物を取り除かねばならぬ。啓示そのものには矛盾はない。が、矛盾する如く思わせる古き夾雑物がある。まずそれを取り除き、その下に埋もれる真実の姿を顕わさねばならぬ。》[霊訓、二五~二六頁]
 《いま地上にて全盛を誇る宗教も、あるいはかつて全盛をきわめた宗教も、どれ一つとして真理を独占するものなどは存在せぬ。完全なる宗教などはどこにも存在せぬ。その発生せる土地、そしてまたそれを生み出した者の必要性を満たすそれなりの真理を幾つか具えてはいても、それには同時にそれなりの誤りも多く含まれており、精神構造も違えば霊的必要性も異なる他の民族に押しつけらるべきものではない。それは神よりその民族のために与えられた霊的栄養なのである。》[霊訓、一六九~一七〇頁]

 「真理」という概念は定義が難しいものである。「物質法則の真理」といった限定的なものならその限定の範囲内では成立するだろうが、宇宙の真理、生の真理といったものはなかなか定義できない。人間も言語も、限界があるものである以上、「究極の真理」には到達しえない。
 だからといって完全な相対主義、つまりどんな表明も対等の価値を持つ、とは言えない。それはニヒリズムと同義であり、価値を否定するものである。われわれは「断片的な真理」、あるいは「その時点でより真理に近いもの」を探るしかない。「断片的な真理」とか「真理に近い知」というものを欺瞞だと主張する哲学者もいるようだが、やはりより「真実に近い知」というものはあるだろう(たとえば大方の科学的真理も暫定的真理であろう。それを絶対化するのは科学探究の自滅である)。
 宗教的な分野で「真実に近い」とはどういうことかと言われれば、「この世を超えた世界の真実は、この世を超えた存在からの情報の方がより正しい」ということになる。異文化の実情はその文化の住人(インフォーマント=情報提供者)に聞くのがよい。
 「インフォーマントの情報がすべて正しいわけではない」という反論は当然成り立つ。「霊」と自称する発信者の発言が、すべて正しいわけではない。しかし、インフォーマントの情報が価値を持つ場合は明らかに多い。われわれ人間は、それら複数の情報を慎重に比較検討し、より真実に近いものを自ら探っていく以外にない。
 宗教的真理は、古くから多くの人に信仰されてきたのであるから、信憑性が高いとする見解がある。しかし、それが正しいかどうかは疑わしい。古い「宗教的真理」の中には、何らかの社会的有効性(取引の正義保証や弱者救済など)があったから、あるいは人々の現世的欲求(集団参加の安心感や依存心)と適合したから、生き延びたものもあるだろう(制度学派の経済史家ノースは宗教を始めとするイデオロギーが「取引コスト」を低減させるということにおいて社会的有益性があったと論じている)し、もしくはただ文化的伝統となっただけのものもあるだろう。
 むしろ、時代も人間の精神も変化したのであるなら、それに応じた表現で新しい真理が説かれる必要があるのではなかろうか。われわれは古代人よりも、個人意識、物理的な知識、分析・総合の知力(合理的精神)において、明らかに優っているはずである(霊的に成長したかどうかはともかく)。それなのに、二千年以上も前の宗教的真理を金科玉条のように崇拝するのは、いささか問題が多すぎるのではなかろうか。ブッダやイエスが探究し獲得した真理は確かに人類史上でも至高の部類のものかもしれない。しかし、それを表現する方法は、古代と現代では異なってしかるべきではなかろうか。
 スピリチュアリズムの霊信のいくつかが、「新たな人類への福音」を自称したのは、すでにあるものに取って代わろうという自己顕示欲・支配欲ではない。人類の精神・意識レベルは進化した。だから、「超越性」についてもそれにふさわしい知識が必要だということである。そして、この視点から、既成宗教への批判も生まれてくる。


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