スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

ミゾを深めるスピリチュアル

2010-07-12 01:47:04 | m.taizo>スピリチュアリズム周囲
昨日、たまたま立ち寄った書店で「陰謀論に騙されるな!」という新書が目に入ってきたので、とりあえず手にして目次をパラパラと。
http://www.kk-bestsellers.com/cgi-bin/detail.cgi?isbn=978-4-584-12283-9

「スピリチュアリズムと終末論の関係」なる見出しがあったので拾い読みしてみると、どうやらまったく近代スピリチュアリズムとは無縁の話のようで、いわゆるスピリチュアルにイズムをつけたものをこの筆者はスピリチュアリズムだと解しているようです。なんでこういうことになっているのか。

私はいわゆるスピリチュアル系はどちらかというと苦手でして、血液型性格診断を信じるのと同じノリで霊魂の死後存続を信じつつ現世利益に執着するようなスピリチュアルであれば、死んだらそれっきりという人生観のもとで一回限りの人生を必死に生き抜いている唯物主義者のほうにむしろ親近感を覚える者です。神の存在はもちろん死後の生命も信じておらず、なんの見返りも想定せずにただ自分の良心に従って社会的な弱者に寄り添って不正を正そうと奮闘しているような懐疑主義者・唯物主義者の皆さんには頭が下がります。

スピリチュアリズムを知るはるか以前から私は懐疑主義者のHPなどを閲覧してきていて、もっとも彼らの多くは理系的な筋道だった思考によって疑似科学のインチキを実証的にあぶりだしていて、学問としての理系がさっぱり理解できない結果としてやむなく文系を名乗らざるを得なかったような私でありますからおよそ懐疑主義者や唯物主義者を名乗るのはおこがましく、「心情左翼」という言葉に倣って「心情懐疑主義者」を標榜するのがせいぜいのところですけれども、そんな私が懐疑主義者の多くが認めないであろう「霊魂の死後存続」に確信を持つようになった今であっても、いわゆるスピリチュアル系への違和感が抜けないままでいるのは、エセ科学や電波系陰謀論とそれこそ「味噌もクソも」一緒くたにしてスピリチュアリズムまがいの言説が流通していることが、健全な懐疑主義的な精神の持ち主とのミゾをいたずらに深めているように感じられるからです。(つづくかも)

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1 コメント

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Unknown (高森光季)
2010-07-13 02:34:27
 投稿者同士でのコメントはちょっと変な感じがするけど、ご容赦を。

 小生も非常に共感する部分があります。
 懐疑は理性・知性に必須のもの。それなくしては理性・知性はありません。(「理系」とは関係ないと思うけれども。また、「実証」絶対主義=理性・知性でないとも思うけれども。さらに言っておけば、懐疑は過激になると「何も(実証主義すら)成立しなくなる」と思うけれども。)
 それを吹っ飛ばしたやり方(特に現世功利主義ゆえの吹っ飛ばし)は、小生は個人的には辟易します。

 もちろん、俗流スピリチュアリズムにはそれなりの意義があります。モーゼズ『霊訓』で、インペレーターはこう言っています。
 《そなたは俗うけするスピリチュアリズムは無用であると言う。その説くところが低俗で聞くに耐えぬと言う。断言するが、そなたの意見は見当違いである。適確さと上品さには欠けるが、確信に満ちたその言葉は、上品で洗練された他の何ものよりも大衆に訴える力がある。野蛮なる投石器によって勢いよく放たれた荒けずりの石のほうが、打算から慣習に迎合し体裁を繕(つくろ)いたる教養人の言説よりもよほど説得力がある。荒けずりであるからこそ役に立つのである。現実味のある物的現象を扱うからこそ、形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴えるのである。》
 しかし、現今の「スピリチュアル」が、「荒けずりであるからこそ役に立つ」、「形而上的判断力に欠ける者の心に強く訴える」ものなのかどうかは、いささか判断を留保したいと思っています。
 もう一つ、インペレーターの言葉を引いておきましょうか。
 《軽薄なる心でもって霊界と係わりをもつ者、単なる好奇心の対象に過ぎぬものに低俗なる動機からのめり込む者、見栄っ張りの自惚れ屋、軽率者、不実者、欲深者、好色家、卑怯者、おしゃべり――この種の者にとりては危険が実に大である。われらとしては、性格的に円満を欠く者が心霊的なものに係わることは勧められぬ。》
 自戒自戒。
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