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「霊能」をめぐって (高森)

2010-07-13 02:29:51 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 一般的に「霊能」と言われるのには、大きく分けると、ESPやPKを行使する能力をもっている人物=「サイキック」と、霊的存在との交信をする「霊媒(ミディアム)」とがある。
 「サイキック」にも大きく分けると二つがあり、ESP能力者とは、透視、予知、過去生リーディング、サイコメトリーなどを行なう者、PK能力者とは、スプーン曲げやアポーツなどの物理的超常現象を行なう者である。
 「ミディアム」は、言うまでもなく、様々な霊的存在(本当に様々)との交渉(情報受信や積極的働きかけ)を行なう者である。
 ただし、「サイキック」と「ミディアム」は必ずしも截然と分かれるわけではない。
 (なお、ミディアムは受動的に霊的存在からの働きかけを受けるもの[憑依型・憑感型]だが、これとは別に、能動的に「霊界」を訪問する霊的交渉者もいる。いわゆる「脱魂型」である。このタイプには現在までのところ正確な呼称がないようである。)

 こうした能力は、ほとんどが「天性」のものである。霊学的に言うと、肉体と霊的身体(いくつかの分類法や呼称がある)が「ずれ」やすく、また、霊的身体構成素(いわゆるエーテル質)を多量に保持していてそれが肉体からはみ出している、ということになる。
 まれには、宗教的修行をすることや、事故に遭うことで、こうした能力が開花されることもある。ただし、修行によって開発された能力は、天性のものに比べると微弱であるようである。

 「霊能」に対して、一般人が抱く感情は、アンビバレントなものであるようだ。一方には、賛嘆し、頼ろうとする態度があり、もう一方には非常に強い感情的忌避がある。もちろん、後者の方が現状でははるかに強い。はなはだしい場合は、はなから「気持ち悪い」「気が狂っている」「ペテン師だ」という罵倒がなされる。
 霊能を生まれながらに持った人々には、これはかなり苛酷な運命である。ちょっとでもそういうものを匂わせようものなら、激しい罵倒と憎悪に遭う。霊能者にとって、超常的な事柄は自分が生きている現実でしかないのに、それを人から罵倒されるというのは、かなりかわいそうである。「こんな能力などないほうがいい」と必死に封印してしまう人が多いのもやむを得ない。

 だから、霊能を持っていてもまっとうで常識的な傾向の人は、隠すか、封印するか、となる。
 逆に、霊能を表に出す人は、よほどその能力が強力で「向こう側」からも強く要請されている人か、あるいはいささか非常識な人、ということになる。
 「向こう側」の要請だとしても、必ずしも高級な霊が強い要請を持つわけではなく、実は程度が低く自己顕示欲や権力欲が強い霊の方が現世に介入したがるので、問題は大きい。
 非常識な人は、客観的知性がないから、自分が受け取ったことが、確かな通信なのか、低次の集合的想念なのか、はたまた自分の妄想なのか、見分けがつけられない。
 こういう状況なので、知性を持ち、かつきちんとした(霊格の高い)霊的存在からのメッセージを媒介できる霊能力者は、なかなか出にくい。世にはびこるのは、でしゃばりの霊か、妄想とごっちゃになったメッセージとなり、当然、霊能を罵倒する傾向はますます強まり、悪循環となる。
 非常に悲しい事態だが、今のところどうにもならない。

 霊能者は、通常の人には見えないものが見えているわけだから、当然、そこに軋轢が生じる。
 霊能者の言うことが、事実と符合していたり、受け手にポジティブな効果をもたらすものであれば、よい驚きや感動を産むだろうが、奇矯なことであったり、ネガティブなものであれば、疑惑視や反発が生じる。「私はアンドロメダから来ました」くらいなら「はいはい、妄想乙」くらいで済むだろうけれども、「あなたの肩の上に何かが……」などと言われると、殴りたくもなるのが人情である。
 こういうことはごく当たり前のはずだが、「私は見えるたちです」と言う人の多くは、どうもこういう当たり前のことがわからないらしい。出しゃばりのあまり高級でない霊に突き動かされているからなのか、当人の知性や常識感覚がないからなのか、そのあたりは微妙である。
 また、霊能者を歓迎する人たちの中には、見えない力や仕組みを使って何か現世の得になるようなものを求めようとしている人も多い。こうした人たちも知性や常識感覚が薄いから、結局、霊能現象に関連するあれこれは、異常に変なものになりがちである。
 これに加えて、詐欺的行為で金銭を取ろうとする人々や、劣等感・疎外感を解消しようとする人々が、「いいたい放題」「常軌なし」の状況に乗じて群がるから、「霊能」や「スピリチュアル」の世界は、惨憺たる状況になる。

 19世紀の欧米スピリチュアリズム運動がなぜあれだけ大きなものになったかというのは、もちろん優秀な霊媒(ミディアム)がなぜかたくさん生まれたからということもあるが、もう一つは、霊媒たちが、「証明しよう」という誠実な意欲を持っていたからであろう。(もちろん、中にはけしからぬ輩もいたことは否定できないけれども。)
 霊媒たちは、研究者という懐疑の塊のような人々に協力し、時には裸にされたり手足を縛られたりしながら、現象を起こしてみせた。失敗すればペテン師呼ばわりされ、成功してもとりたてて金銭や名声が得られるわけでもないのに、である。
 スピリチュアリズムやサイキカル・リサーチ(心霊研究)の蓄積の裏には、こうした霊媒たちの無私の献身があったことは否定できない。

 以前、スピリチュアリズム研究家の故・梅原伸太郎先生が、こう言ったことがある。
 「霊媒の第一の仕事は、霊の実在を証明してみせることであるべきである。」(「証明」ではなく、「人に確信させる」だったかもしれない。)
 そして先生は、「各都道府県に一人、というような具合に、つまり、誰もがそれほど苦労なく行ける範囲に、霊の実在を証明できるような霊媒がいて、それを知りたい、確かめたいと思う人に確証が与えられる、そういうシステムが作れたら素晴らしいだろう」と述べていた。
 確かにそうなったらいいだろうな、と筆者も思った。霊媒は、人生相談や心身治癒といった問題の多いところに関わるよりも、まずは「霊の実在証明」に努めてくれればいい、と。
 実際、かなり昔、梅原先生は、「日本霊能者・審神者会議」という集まりを立ち上げて、もっと霊能者の「証明努力」を高めようと企図したようである。まあ、これはうまく行かなかったらしい。霊能者たちにはプライドもあっただろうし、審神者(霊信や現象の真偽・品質を査定する役割)になれる人などなかなかいないだろうし、また、霊能者同士が付き合うことは、どうもいろいろと問題があったのかもしれない(そういうことをほのめかす霊信もある。「霊統」の異なる霊能者同士が出会うと、上も混乱するらしい)。

 霊能者がどれだけ「証明努力」に耐えうるか、それはよくわからない。霊能というのは不安定で、いつも同じように発揮できるわけではないから、必ず「証明要請」に応えられるわけではないし。
 特に日本では、正面切って「本当ですか、証明できますか」と尋ねることは、なかなか難しい(遠慮が働く、というか喧嘩を売っているように取られる)ので、困る。しかし、医者だってその他サービスだって、「確かですか」と問う権利は受け手にあるわけだから、霊能者側も腹を据えてほしいものだと思うのだけれども。

 まあ、これは現状では夢物語だが、どこかの専門機関が、霊媒・霊能者の実力認定試験を実施して、お墨付きを発行するというようなことになれば、あやしい霊能者の被害は少なくなるかもしれない。また、なにがしかの支援ができれば、なかなかつらい霊能者の生活も、少しは助けられるかもしれない。
 霊能者、特に優秀な霊媒は、人間に「霊的世界」を知らしめてくれる、貴重な存在である。霊的な世界を認める人は、そういう存在を支援する方法を、考えるべきなのかもしれない。

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