スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

イデアとしての厭世主義

2011-08-19 00:43:38 | 高森光季>仏教論・その他

 仏教を超鳥瞰的に眺めると、やはりそこに浮かび上がってくるのは、「厭離」の強い色彩です。
 これは当然のことで、仏教の開祖ブッダの初期設定が「生は苦である」だったわけです。もっともブッダの出発点はもう少し複雑で、「苦の連続である輪廻から脱け出るためにはどうしたらよいか」というもので(生を忌避して自殺しても生まれ変わってしまうから解決にならない)、これは前にも書きましたように、先行するウパニシャッドの問題設定であったわけです。
 (ただし「六道」という考えはブッダ時代にはなかったようです。このあたり、私は間違えたことを書いていたかもしれません。天人も輪廻するというのは大乗中期の大般涅槃経あたりからで、ひょっとするとブッダが「生存は尽きた、もう生まれ変わることはない」と言ったのは、単に神々の世界へ行くという意味、あるいはまったく消滅するという意味だったのかもしれません。……さらにひょっとするとブッダは「完全消滅」を目指していたのかもしれず、もしそうであるなら、現代の唯物論――死ねば終わりという「帰無仮説」――の中ではブッダと仏教は生まれる必要はなかったのかもしれません。笑えない冗談。)
 そして、単純に言えば、ブッダは、「輪廻を繰り返すのは、この世のものを実体と見てそれに執着するからである」「実体を突き詰めていくと、それはない。そう徹底して認識すれば、輪廻は終わる」と説いたわけです(もっとも、輪廻という主題を捨象して、単に「生の苦」を緩和する――安楽な人生を送る――ことが目的だったと解釈する人たちもいるわけですが、それはちょっと成り立たないだろうと私は思っています)。
 ただし、後半生のブッダは、超能力合戦で教団を乗っ取り1000人の信者を獲得したり、有力者の支援によって修行共同体を作ったりと、現世的に立派に活動し、また説くところも、「苦しみを脱するための人生の智慧」を語る道学者のようになっていきます。「私のさとった真理は誰にもわからないから、このまま入滅しよう」と言った(本当に本人が言ったかどうかは不明)「寂滅志向」の探求者から、ドラマティックに「転向」したように見えます(最晩年には「人生は甘美だ」などとも言ったようですし)。まあ、現代日本の一般的仏教者はこちらのブッダを好むようですが(ちょっと悪態)。
 しかし、ブッダのメインテーゼが「生の苦から逃れよ」だったことは否定できません。
 《切に世を厭い嫌う者となれ。》(『スッタニパータ』「ラーフラ」)

 この後の仏教が、苦はどうして起こるかという心理学的探究(唯識)と、執着の原因となる実体視をどう破砕するかという哲学(空論)になっていくのは、いささか異常発展の気味もありますが、確かにブッダの問題意識の継承だと言えるでしょう。

 で、私が先日、空・無の哲学について(あくまで「ついて」)瞑想していた時、どこからともなくやってきたインスピレーションがこういうものでした。
 《空や無の哲学はエイドスである。エイドスに囚われるとイデアは見えない。》
 そう、問題は空・無の“イデア”なのです。

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 ブッダの「生を厭う」志向は、単純で嫌な言葉を使えば、「厭世主義」です。これは英語では「ペシミズム」で、別の訳では悲観主義となってしまいます。
 いずれにしろ、皮相的な言葉です。いわく「ペシミズムは鬱病の症状である」(ブッダを鬱病だったとする説もありますが、鬱病患者は修行などを思い立ったりはしませんw)。あるいは、「コップに半分水がある時、“半分もある”ではなく“半分しかない”と思ってしまう心の性癖」(欲張りから来るのかもしれませんね)。
 しかし、厭世主義は、そんな皮相な概念ではありません。もっと深く、巨大な「イデア」だと思います(ただしイデア自体は直接把捉できない)。この巨大なイデアにそういう名前を貼り付けるのは、むしろ気が引けますが、他にいい名前がないので、仕方なく「厭世主義」とレッテルを貼ってみます。

 このイデアはたくさんのエイドスを生み出します。「半分しか水がない」という悲観主義や、「何も意味・価値はない」という虚無主義は、その病的な表現に過ぎません。もっと本格的な表現として、「生は苦でしかない」「すべては仮設である」「主体性(意志・決定・力)は幻想である」「万象は永続性を持たない」「実在(真の存在)はない」、さらに詩的な表現として、「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり、沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表わす」「行く河の流れは絶えずして元の水にあらず、淀みに浮かぶうたかたはかつ消えかつ結びて久しく留まりたるためしなし」……
 ブッダおよび仏教の多くの活動・表現が、このイデアの表現であることは疑いないことでしょう(一部には法華主義のような現世主義もありますが)。浄土教の「厭離穢土・欣求浄土」も、どちらかと言えば「厭離穢土」に力点があったと思われます。もちろん、他の宗教や文化にも、このイデアの顕現はあるでしょう(旧約コヘレト書の「空の空なるかな」とか、キリスト教・イスラームにおける終末幻像とか、諸宗教の隠遁主義とか)。

 このイデアが人類の精神活動の大きな源泉の一つであったことは間違いありません。ほかにもそうしたイデアはあります。キリスト教の「罪」、神道の「自然共存」……イデアは高位のものから派生的なものまで無数に存在し、その顕現であるエイドスもさらに無数に存在する。(この話はなかなか理解されないだろうからまた後で。)

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 この「厭世主義」イデアの顕われは、「生への忌避」となって、様々な人間の活動・表現を生み出します。
 その極端な例が、自殺です。もともとブッダは、真理をさとった後、そのまま入滅しようとしました。それを止めたのが梵天で、だから仏教が誕生したわけですが、この神話の意味、なぜ「生に還ってきた」かは、謎です。
 その後の仏教求道者でも、自殺をした人はたくさんいます。
 中国浄土教の大成者・善導(7世紀)は、「寺前の柳の樹木に登り自ら身を投じて死した」という伝承があります(異論もあります)。
 日本では、「入水往生」(四天王寺)や「補陀落渡海」(熊野那智)など、浄土に行くことをめざして“自殺”した仏教者は非常に多いようです。真言密教で衆生済度のため即身仏となる「土中入定」も同様です。これらは「浄土往生」や「衆生済度」といった目標を掲げているので、単に「生を厭離した」ということではないですが、いくら目標・希望を抱いたとしても、現世への強烈な忌避感がなければ成立しないものでしょう。仏になること、あるいは浄土に生まれることが決まっていれば、「穢土たるこの世」に生きている必要はないわけですから、自殺はまったく問題にならないわけです。
 この「自殺への寛容」は、日本精神文化の一つの伏流になっているようにも思われます。現代日本の自殺者は3万人を越えて(実態はその倍以上ではないかと言われています)、先進国では異常に多いとされています。これは民度が低いとか救貧制度の不備とかいうことではなく、日本の精神風土に、自殺への寛容の思想があるからでしょう。一神教文化圏では、自殺は「神の奴隷たる人間の、主人への最大の反逆」とされ、厳しい批判の目にさらされます。こうした「縛り」がなく、仏教を通じて「厭離穢土」のイデアを持っている日本人は、やはり自殺しやすい傾向を持ってしまうのではないでしょうか。

 自殺はあまり芳しい顕われではありませんが、「厭世主義」イデアは、別の面で日本精神文化によい影響をもたらしていると思います。それは、「自己を滅する」「我を抑える」「足を知る」といった、「反・我欲」の伝統です。この背景には「無常感」、つまり世俗の富や権力や快楽の虚しさを見るまなざしがあります。空也、西行、一遍、鴨長明といった「世捨て人」の生は、仏教なしには成り立たなかったでしょうし、そうした人々に憧憬を抱く日本人の心性も、やはり仏教の大きな影響があったでしょう。ある意味、日本人は、仏教の「厭世主義イデア」を、血肉化しているとも思えます。
 (ところで、弘法大師はあまり厭世主義の匂いがしないような感じがします。密教自体がそうなのかしら)

 余談ですが、東日本大震災で、略奪などが起こらず、危機の中でも列を作るなど秩序を守った日本人のあり方は、けっこう外国人には驚きだったようです。これは民度が高い(教育水準が高い)とか、農民的集団主義メンタリティとか、いろいろな要素があるでしょうけれども、そこにはやはり、「我を抑える」という仏教の教えが生きているような気がしないでもないのです。この点、同じ東アジア圏でも中国・朝鮮は、早くから仏教を捨てたために、ごりごりの世俗主義・我欲主義が繁茂し、日本人の眉をひそめさせるような出来事が頻発しているようにも思えます。

 以前、浄土真宗の僧侶・学者である大村英昭氏が、「鎮めの宗教」ということを主張したことがあります。大衆的仏教の主眼は、「鎮める」ことにある、今の資本主義社会は人間の欲望を煽る、新宗教もまた欲望を煽る、それに対して仏教は、人の心を鎮め、落ち着かせ、透徹させることを呼びかけるものだ、と。私はそれを聞いた時、一理あるなあと思いました。大衆は確かに、僧侶の法力を期待するところもある。しかしそれがなくても、僧侶が「捨てる」生活をしていれば、それを範にし、崇敬するでしょう。今の日本人の仏教批判は、「外車を乗り回し、夜は歓楽街に出入りする」僧侶の姿に憤っているのだと思います。

 もう一つ余談。スピリチュアリズムの双子とも言われる神智学は、インド思想や密教に強く影響を受けていますが、面白いことに、全然「厭世主義」ではないようです。彼らは高次霊界とつながり、自らの力を高めます。その力は、かなり現世的な目的に向けられているように見えます。神智学はとても「鎮めの宗教」ではないでしょう。やはり西洋文化のものだということでしょうか。

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 スピリチュアリズムは厭世主義ではありません。霊師たちは、この世は「ケチでちっぽけな世界」「粗く重いうんざりする世界」だと言い、人間は「重い肉体という牢獄に閉じ込められた」「知性も想像力も自由に働かせられない」かわいそうな存在だと言ったりします。けれども、「捨てろ」とは言わない。それはそうです。そういう鈍重な世界で学ぶことがいまだ未熟な人間の魂に課せられているからです。だから、「苦しめ」とさえ言う。罪や過ちを犯すことを恐れてじっとしているよりは、罪や過ちを犯し、恥辱にまみれても、生きろと言う。肉体の快楽も、懶惰になってはいけないが、味わえと言う。
 マイヤーズ通信から。
 《「絶対美」を求めるのなら、現実の地上世界を送る間は五官の喜びを軽侮すべきではない。なぜなら彼はこうした種類ないし状態の生活を十分に経験するためにこそ地上に生まれてきたからである。彼は花々や野原、山や海の美をめでるべきである。大都会の美、動き呼吸するすべての生き物の美しさを鑑賞すべきである。絵画や音楽に喜びを見出し、流麗な言葉の美に心と魂を震わせるなら、その人は罪深いどころか霊的力を増大させているのである。〔中略〕恋する人と孤高の人、快楽主義者と禁欲主義者、聖者・賢者とただの人、これらのすべての面が彼の中に含まれていなければならない。しかし、むろん、賢者が劣った兄弟を抑え、最終的にはすべての性質を支配すべきである。》
 このイデアは何と名づけるべきでしょうかね。「成長」でしょうか。

 優劣を言っているわけではありません。イデアが違うということです。
 そして人間の心は、様々なイデア(の派生イデア)が出会い、ぶつかる場でもあります。正直、私は厭世主義にも惹かれるものがあり、もちろんスピリチュアリズムの成長主義にも惹かれます。「美」のイデアも欠かせません。その他にもいろいろなイデアが流れ込み、ぶつかったり融け合ったりしながら、私の精神活動を形成しているのだと思います。
 イデア論自体についてはまた改めて。


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4 コメント

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簡単な感想 (今来学人)
2011-08-19 12:47:39
仏教を虚無主義あるいは厭世主義というもので一括りしてしまうと(深いイデアなんですが)仏教の一部分しか見てないようで私としてはあまり納得いかないもんです(笑。どうしてもショーペンハウアーなんかの西洋人が考える仏教観を思い出してしまいます(詳細は『虚無の信仰』『仏教と西洋の出会い』参照)。私は仏陀という人は楽観主義でもないし、悲観主義でもなく、極めて現実主義者のようにも思います。今生きている世界でどれだけ良い行いを出来て自分自身を節制できるかなどの如きものです。その過程で厭世観を発生すべきものではあってもその境地が自身にとって「楽」とされるものであれば、仏教の理想は「悲」でもないし、「楽」でもないように思えるのです。ダライ・ラマなどはどういっているのか探ってみます。

ちなみに密教には厭世観がありません。神智学にもそれがないというのは、明治期にお互いが交流しあった事実をみても肯けるところです。しかしそれがないために密教が仏教から分離してしまって危うい方向に行ってしまう可能性もあります。
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仏教と西洋の出会い (今来学人)
2011-08-19 20:52:41
今回の高森さまの発言をきっかけとしてフレデリック・ルノワールの書いた本を読み直しているところです。

そこでは西洋における仏教受容の新たな段階(虚無主義、厭世主義とは違う)として二つの出来事があったとしてます。ひとつはオルコット大佐とブラヴァツキー夫人による1875年の神智学協会の設立と、もう一つはエドウィン・アーノルドによる1879年出版の『アジアの光』だそうです。

最初の出来事は、チベットという神話の再活性化による仏教の「魅力再発見」であり、広義には仏教「近代主義」と西洋の魔術思想とを両立させる試み、その背後には当時の社会にのしかかっていた実証主義社会と教条主義的宗教との対立をいかに乗り越えるべきかとの懸念があった、と。第二の出来事の背後には、社会が世俗化し、キリスト教会がますます影響力を失いつつある中で、キリスト教全体、ことにカトリック教会で随所に起こったある現象があった。すなわち「心の宗教」、信心、宗教的感動の再発見という現象だった、と。これらが仏教のロマン主義的解釈の発端だったようです。
(pp. 155-156)

神智学が厭世観とは異なるところから出てきたのであれば、それと類似する密教(明治中期にはそう考えられていた)も厭世的というよりむしろロマン主義的かもしれません。ちなみに1847年のフォックス姉妹の事件、カルデックの1857年の『霊の書』出版の背景として、当時のこういう世界観を考えなければならないということ、ようやく分かってきました。
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今来さまへ多謝 (高森光季)
2011-08-19 23:37:17
どうも愚論にいろいろとコメントありがとうございます。勉強になります。

「仮有」という表現は実感的にも納得します。ただ、そうすると、その対立概念として「本有」を想定してしまう。それを仏教は「ない」と言い切る。スピリチュアリストは「把握不能」と言う。……

まあ、仏教というのは統一見解というものがないようで、ほんとによくわかりません(笑い)。切実な問題として魂はあるのかないのか(仮有であっても)、輪廻はあるのかないのか、くらいははっきりしてもらいたいものだなあと外野からは思うわけです。(死後存続研究の流れを見ても、近年のホットポイントは輪廻だと思われますし。)

ルノワールは知りませんでした。アーノルドも。ミュラーのことは出て来ないのでしょうか。
ググったら、柄谷行人氏のレビューが出てきて、「西洋にはチベットへの憧(あこが)れが中世からあった。……さらに、ラマ教が輪廻(りんね)転生の教義やそれに付随するさまざまな身体技法をもっていたからだ。これは、ブッダの教えの真髄(しんずい)が輪廻転生するような同一的な自己を仮象として批判することにあるとすれば、まったく仏教に反する見解である」なんて書いてありますね。現代日本の知識人はやっぱりこういう見方をしているんだと思います。で、私がただ一つマジに言いたいことは、ブッダの思想は輪廻が前提じゃなきゃ成立しないんじゃない?、ということなんですけどねえ。違いますかねえ。どうお考えですか。
それはともあれ、「当時の世界観」のこと、おわかりになりましたらまたご教示ください。

密教にはやはり厭世主義はないのですか。面白いですね(不謹慎?)。「それがないために密教が仏教から分離してしまって危うい方向に行ってしまう可能性もあります」というご指摘も興味深く拝聴いたしました。

取り急ぎ、まずはお礼申し上げます。
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知っていること (今来学人)
2011-08-20 18:47:03
米欧における仏教の受容とその当時の宗教観を考える上で、先に挙げた『虚無の信仰』と『仏教と西洋の出会い』は読んで頂いた方が良いように思われます。専門ではないため、それ以上のことは言えません。『虚無の信仰』は宗教学の研究者-とくに近代の仏教を研究する人たち-によく読まれていると聞いたことがあります。

輪廻が前提であり、それの克服が目指されたということ、それはヴェーダ学と仏教の展開を探る東北大の後藤敏文がこの点を重点的に研究されているように思います。
http://www.sal.tohoku.ac.jp/indology/goto-gyouseki.html
その中、『言語』という雑誌の一連のシリーズがわりと読みやすいです。
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