スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

スピリチュアリズムと聖典

2010-06-13 23:59:16 | m.taizo>スピリチュアリズム周囲
スピリチュアリズムを語る際に、時にもどかしく思うのが主張のより所をはっきりと特定して示せないことです。宗教組織ではないので教義が存在せず、したがって聖典・正典が存在するはずもなく、そして存在しないところにこそ本質があるとも思うのですけれども、いささか不便であることは否めません。

「スピリチュアリズムとは」「スピリチュアリズムの説くところによると」などと断定してみたい誘惑にかられることがしばしばあって、私がそのように言い切ってみたくなる場合に念頭に置いているのは翻訳者の近藤千雄さんの名付けた“世界三大霊訓”(カルデック『霊の書』、モーゼズ『霊訓』、『シルバー・バーチの霊訓』)に加えて、ホワイト・イーグル霊、マイヤーズ霊による通信あたりですけれども、しょうがないので「代表的な霊信によると」「定評ある霊信に共通していることとして」などとぼやかして言ったり、あるいは「シルバー・バーチ(霊)によると」「インペレーター(霊)いわく」「マイヤーズ(霊)によれば」などと通信霊の名を挙げて限定したりするわけです。無記名や無名の通信霊からの言葉を多数含む『霊の書』であれば「『霊の書』の通信霊によると」などといちいち書いたりすることになります。

「通信内容そのものが大事で通信者の名前そのものは重要ではない」という姿勢が“代表的な霊信”には共通しているにもかかわらず、「代表的な」とか「定評ある」とか、私は使いませんけれども「高級霊訓」とか、相対的で主観的かつ権威主義的とすら受け取られかねない形容を持ち出さざるを得ないことに、ちょっとばかり居心地の悪さを覚えたりもします。とはいえ、それら“代表的な霊信”で語られている情報には大枠で一致しているところが多く、そしてその情報から導きだされる生き方の方向性みたいなものは情報の細部よりも共通していると私は感じていて、なおかつ何より直観としてそれらを高次(少なくとも自分よりはるかに)からのものだと感じていたりするのもあって、面倒くさいし居心地も悪いけれども、便宜的に上記形容を使っているわけです。

この居心地の悪さやもどかしさは、しかしスピリチュアリズムを語る際の宿命みたいなもので、この文を書いている間にもまさに自縄自縛的な窮屈さに参っているのですけれども、今後のブログでは、面倒なので、しばしば形容をハショって断定的に話を進めることにするかもしれません。私のいうスピリチュアリズムとはだいたい上記の霊信に限定された情報を私なりに解釈したものに過ぎません。(続けます)

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