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宗教の核 (高森)

2010-06-14 08:00:00 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学
 「宗教」というのはとてつもなく広い概念で、そこにはいろいろなものが含まれるわけですけれど、実はその大もと、一番初めの核は、ひとつのことだと思います。
 それは、「見えない存在」「見えない世界」とどういう交渉をするか。
 「見えない存在」とは、「神」とか「神々」とか「神仏」とか「霊」とか、が代表。
 「見えない世界」とは、「天国」「浄土」「霊界」など。当然「死後世界」全般もあります。

 微妙なものに、「見えない仕組み」というのがあります。「気」とか「経絡」とか、あるいは「波動」とか「カルマ」とか。「ESP」や「念力」もここに含められるかもしれません。この中には「現在の科学的観察方法では観測不能だけれども、おそらくそのうち観測可能になるだろうと思われるもの」もありますし、「物質的な世界とは根本的に異なるもの」もあるでしょう。ちょっとこのあたりの問題はややこしくなるので、置いておきます。

 「見えない存在」「見えない世界」にどう接するか。どう働きかけるか。私たちが神前で祈り、葬儀や法事でお経を唱えるのは、なにがしか「見えない存在・世界」に働きかけているわけですよね。ほとんどすべての宗教の儀式や行動は、そういうものでしょう。

 「宗教とは見えない存在・世界との交渉である」――こう書いてしまうと、ごく当たり前のように思われるでしょうけれども、このことは、宗教に携わっている人間、宗教を研究している人間には、よく忘れられるもののようです。
 たとえば、近代仏教学・宗学の人たちは、お釈迦様のことを、「永遠の真理を悟った人」というふうに捉えたがります。「人間の煩悩は欲望から生じる」とか「物事はすべて因果論で発生している」とか「独立した永遠不変の実体はない」といったことを、2000年以上も前に発見した人で、お釈迦様の偉大さはそこにある、と。しかし、それがお釈迦様の「全体」でしょうか。
 また、田川建三さんの『イエスという男』という本があります。実に素晴らしい本で、キリスト教が隠蔽してきた人間イエスの姿を――人間性豊かで、非常に高邁な理想を説き、社会のあり方を批判した稀有な人物の姿を――描いています。しかし、なぜイエスという人がそういう生を生きたのか、なぜそこまで高邁な理想を説き、かつ生きられたのかは、問題になっていません。
 宗教学という学問も同じですね。宗教史学とか宗教社会学というのは、宗教の現実的な展開を研究するのだから、「見える世界」だけを問題にしていればいいわけですが、宗教学は、様々な宗教の言葉や行動を叙述したり比較したりするのですけれども、そのもとになっている部分は問題にしない。「神とされるもの」「霊と考えられているもの」といった「括弧に入れる」(判断しない)表現しか許されません。
 こうしたことは、学問の世界にとどまりません。
 近年の仏教僧の多くは、「仏菩薩」や「霊魂」や「浄土」といったことに関して、タブー視しています。葬式でお経を読んでも、それが「死者の霊魂に対してのもの」とか、「死者が無事あの世に行けるように」とかは「言えない」のです。嘘のような話ですけれども、本当です。
 キリスト教の現在の状況はよく知りませんが、「天国ってあるんですか」という問いに、果たしてどのくらいの人が「あります」と言えるのか、ちょっと疑問です(「あなたの心の中に」という答えは除外して)。

 「そういう見えない存在・世界を問題にしない宗教もある」と言う人もいると思います。確かに、仏教の一部はそうかもしれません。「中観思想」や「唯識思想」は、反実体論哲学、深層心理学に近いものと言えるでしょうし、「禅」は「見えない世界・存在」といった「概念」すら否定するものだったでしょう。
 そういう意味では、仏教は特殊だったのかもしれません。ただ、もしかすると、それは「その部分だけを取り出してみると、そうだ」ということはないでしょうか。中観、唯識、禅といったものは、方法論や、敷衍的な思想であって、その大前提には、「悟りによる輪廻からの解脱」や「成仏=みずからが仏菩薩になる」といった仏教初期からの「見えない世界・存在へのアプローチ」があったのではないでしょうか(中観の祖ナーガールジュナは仏菩薩の存在を信じていたと言いますし、道元禅師も生まれ変わりを認めていました)。たとえば、神の弁証から発展したスコラ哲学が、それだけを見ると単なる思弁的哲学であるように見えるのと同じで。まあ、このあたりはいろいろと異論があるでしょうけれども。

 逆に言えば、「目に見えない存在・世界」を問題にしない宗教は、果たして宗教なのか、という問い方もできるかもしれません。それは、哲学や心理学や倫理学・人生論と、どう違うのでしょうか。意地悪く言えば、現代の量子物理学や深層心理学や倫理学(やや疑問)があるのに、何千年、何百年まえの「学問」を引っ張り出してこなくてもいいのではないでしょうか。

 「見えない存在・世界」との「交渉」には、様々な形態があります。
 一つは、修行・苦行によって「神秘体験」をすること。釈迦は、瞑想修行の後、「誰にも真似できない」ほどの苦行をしましたが、求めていた「悟り」を得られず、その後に菩提樹の下で瞑想を再開した時に「悟り」を得た、とされています。いささか奇妙な話ですが、ともあれ、そこで釈迦はなにがしかの「神秘体験」をしたと思われます。
 ムハンマドも40歳くらいになるまで、ずっと平凡な瞑想修行者でしたが、ある時、洞窟で瞑想をしているうちに、神の声を聞きました。
 諸宗教・宗派の開祖には、ほとんどこういった経歴が添えられています。日本でも空海の「虚空蔵求聞持法による神秘体験」、道元の「心身脱落体験」、黒住教教祖の「太陽との合一体験」などの伝承があります。
 もう一つには、持って生まれた「特殊能力(霊能)」があります(前項と対立するものではありません)。
 イエスは「荒野で四十日間断食し、悪魔の誘惑に耐えた」という記述がありますが、これは信頼できるかどうかは疑問です。修行をしなかったとは言えませんが、後の言行から見て、どちらかというと、もともと特殊な能力を持っていたように思われます。
 玉光教現教主やギリシャの聖人ダスカロスなども、このタイプと思われます。
 ただし、こうした人たちが教祖的存在になるには、その資質を一定の修行などで磨く必要があるようです。
 まぎらわしいのが、病気や経済的困窮などで、こうした能力が突然現われる場合です。天理教教祖、金光教教祖などがこういうケースで、修行はもちろん、当人の意志すらなく、突然、「見えない存在・世界」との交渉が始まるわけです。
 いずれにせよ、「見えない存在・世界」との接触・交渉体験によって、教祖は生まれます。そして、そこで得たインスピレーションを現実に表現したり、獲得した知識を説くことで、宗教が誕生することになります。

 スピリチュアリズムの立場から言えば、「見えない存在」は霊であり、「見えない世界」は「霊界」です。つまり宗教は霊・霊界との交渉で始まることになります。
 身も蓋もない表現に気を悪くする人もいるでしょう。「いや、わが教祖は絶対神とつながったのだ」「わが教祖は絶対の真理を悟ったのだ」「そこらへんの霊能者と一緒にするのは失礼千万」……
 しかし、「私が絶対」「私が唯一」という考え方は、果たして妥当なのでしょうか。また、高級な精神から発せられる言葉なのでしょうか。「客観性」や「多様性」を理解するようになった人類は、そうした「独善」が危険なものであることをすでに充分学んでいるのではないでしょうか。「絶対」や「唯一」を一人の人間(ないし一つの宗派)が独占できるというのは、そもそもおかしい話ではないでしょうか。
 偉大な教祖たちを「そこらへんの霊能者」と一緒にするつもりはありません。
 霊は多様であり、霊界は多様です。未熟な霊もいれば、神に等しいように感じられる高級霊もいる。おどろおどろしい霊界もあれば、人知を絶する叡智が満ちている霊界もある。また、色合いや個性も様々でしょう。
 その中のどこと、誰とコンタクトを持つか。それによって「霊的世界との交渉」は、低劣なものにも崇高なものにもなります。
 「高級・低級」という言葉を使うと、また「自分たちこそ高級」という「独善」が生まれてしまう、いっそ「違う」だけにして、皆平等としたらどうか、という考え方もあるかもしれません。しかし、どう考えても、やはり「高級・低級」があることは否定できないと思います。ただ、「その論拠は?」と問われても、客観的・実証的な回答はできません。どうも「ある」と言わざるを得ない。それだけです。
 また、スピリチュアリズムの霊信が「どれよりも高級」と言うつもりもありません。私個人は、「一定の整合性がありいろいろなことが説明可能になる」「複数の独立した情報源からほぼ同じ情報が得られているので信憑性が高い」「独善性が感じられない」といったことから、信を置いていますが、「だから高級」と主張するつもりはありません。実際、スピリチュアリズムは神智学から「低級」と批判されていますが、「そうかな」と思う程度です。

 話があちこち飛びましたが、要するに、「宗教の核となるものは霊・霊界との交渉」であって、その点において哲学・心理学・倫理学といった学問とは異なるものである、そしてこの「核」を抜きにした宗教理解は、おそらく非常に偏った、薄っぺらなものになるだろう、と思うわけです。

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