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【出発点に戻って】死は終わりではない③

2012-04-05 00:05:54 | 高森光季>死は終わりではない

 「“私”は死後も存続するのか」
 この問いは空理空論ではなく、すべての人に関わりのある問いだと言えるでしょう。
 この問いに「イエス」なのか「ノー」なのか。それが「霊魂説」と「唯物論」の対立です。
 どちらですか?

 こういう問いかけを無化しようとする人もいます。「この二者択一自体がおかしい」とか「“私”は存在しない。生も死もない」とか。
 ぶっちゃけて言えば、理屈というのはかなりどうにでもなるものです。人間の思考や言葉というのは、相当アクロバティックなことができる。そしてそれなりに完結した世界を描くこともできる。「現実」や「実在」を消し去ってしまえば、それはそれで成り立つ。キリスト教神学の「三位一体論」や「贖罪論」や「パンの聖体化論」などを見てみれば、そのことはよくわかります。
 だから、「二者択一」を回避する理屈もたくさん作れます。

 一部の仏教信者は言うかもしれません。「私はない、世界もない、死もないし生もない」。
 神秘体験の表現ならそれでいいのかもしれませんが、そこからどこへ行くのでしょうか。私には理解できません。
 「ふうん、そうですか」と言って虎をけしかけるとか、包丁を喉に突きつけて「包丁もあなたも空ですよね」とかいう手もありかもしれません。あるいはその人の家に押し入って、一切合切を盗んでくる。「だって存在しないんでしょ」と。
 まあそういう悪趣味な方法はやめておくにしても、ではそういう仏教信者さんは、大震災で罹災した人たちに対しても、「私も世界もない、死も生もない」と言うのでしょうか。

 折衷的な命題を好む人もいます。死んだら“私”はなくなるが、「何かは残る」とか「大いなるものに融合する」とか。でも、「何か」「大いなるもの」とは何かははっきり言わない。どうやって残るのか、融合するのかもわからない。
 不思議に思うのは、「何か」や「大いなるもの」の存在を認めるのに、なぜ「魂」だけは必死になって否定するのか、ということです。「大いなるもの」はシステム的・機械的なもので、霊魂は主体的・人格的なものだからでしょうか。主体性や人格性は、それほど「消し去るべきもの」なのでしょうか。私たちは普通生きている時、主体性や人格性をもって生きているわけですが、それがそんなに忌むべきもの、消し去るべきものなのでしょうか。
 何かそこには不思議な「心理的抵抗」(無意識的忌避)のようなものが働いている感じがします。

 「布をかぶせる」式の理論が多くの人に好まれるのも、このあたりのことに関係していそうです。
 「布をかぶせる」というのは、死後の魂や霊界といったものは「露骨で嘘くさいと感じる」ので、それは隠蔽しつつ、それをぼんやりと匂わせる論を立てるというものです。
 ユングなどはそうですね。「集合無意識」とか「自己」とか「シンクロニシティ」といった、正体不明な概念を立てる。これは、霊界や魂や霊的啓示の「言い換え」です。言い換えたから何かがより明らかになったというわけではありません。むしろ実在性・具体性がぼやけるきらいがあります。けれども、多くの人は、霊界とか魂というと「引く」のに、「集合無意識」や「自己」と言われると大きな魅力を感じるようです。
 ニューエイジとかスピリチュアルとかオカルトというのも多くはそうですね。何か目に見えない法則、力のようなものがあると信じる。それを積極的に利用しようとする。
 けっこう多くの「神秘主義」愛好者がいます。古代文明の叡智とか錬金術とか神秘的数字学とか風水とか気学とか。特にこういうものは、難解で一見意味が深そうで華麗な表現が多用されていて、それを読解しようとすることに多くの人が熱を上げています。
 けれども「死後の霊魂」「死後の世界」「霊界」「霊的存在」といったものは微妙に避ける。
 神社や僧侶の「効験」「法力」を期待する民衆信仰も、これと同じかもしれません。そこにはぼんやりと霊的存在が想定されていますが、具体的ではなく、「自分の死後存続問題」もはっきり意識はされません。
 シュタイナーの人智学も、一部にはこうした傾向があるように見えます。シュタイナー自身は「高度な霊的世界の体験」を中核にしていたわけですけれども、そんなことはおいそれとできるものではない。そのプロセスのためや応用として、教育や芸術理論などが創られたわけですが、けっこう多くの人はそこにばかり目が行って、中核である「死後存続」「霊的存在・霊的世界の実在」は無視しようとします。「人智学徒」を自称する人に「死後の霊魂はどうなるの」と聞くと、目を丸くされたりします。
 トランスパーソナル思想も、そうかもしれません。「個人を超えた世界」を標榜しながら、この世を超えた世界や存在は認めない。私は一度、自他ともに認めるトランスパーソナリストに「死後問題はどうなるんですか」とお尋ねしたことがありますが、とりつく島もありませんでした。確か、「そんなのはくだらない問題だ」というニュアンスでした。

 これはスピリチュアリストの私からすると、非常に奇妙な感じを受けるのです。不可視の何かを追究しているのに、「霊魂」「霊界」になると、とたんに無関心あるいは反発を示す。「え、だってすぐそこにそのことはあるでしょうに」と思うのですが、そこには断固として足を踏み入れない。時には感情的な反発も受ける。
 奇妙だなあと思います。やはり不思議な「心理的抵抗」あるいは「禁忌」が働いているのかもしれません。


 もちろん、前回も述べましたように、「死んだらどうなるのか」に関して、絶対的な真理はありません。「消滅する」「存在し続ける」「どちらでもない」のいずれも、選択する権利があります。どれを信じても自由です。
 たぶん、どれをとってもそれなりのメリット・デメリットはあるのでしょうし、どれかを選んだら心の安らぎや救いや現世的利益を最も多く(あるいは絶対)得られるということもないでしょう。
 私は、様々な情報や自身の体験から、そして、それがこの世で起こっている様々な現象を一番広く説明できるものであるから、「存続し続ける」が真理だと思っています。そしてそれは多くの人々が自然に思えることだとも思っています。この200年弱の近代先進国人を除いて、全人類史のほとんどの人たちは、直観的にそう信じてきましたし、今も信じています。それはその人たちが「科学を知らない愚かな人たち」だからではないでしょう。
 唯物論者たちは、「反唯物論的な言説を信じる人々は、死んだらおしまいだと本当は知っているが、心の安らぎを得るために信じているのだ」と思っているのでしょうが、実は逆かもしれません。「近代人を自負する人々も、死後世界があると本当は知っているが、心の安らぎを得るために死んだらおしまいだと思っている」のかもしれません。


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