筑波大学の津城寛文教授がご自身のブログの「来世を信ぜざるものは悪を行なう(法句経)」というエントリで次のような発言をされています。
《ブッダの教えで私が一番好きなのは、「来世を信じないものは、どんな悪事でも、しないことはない」という、初心者の中でもあまりレベルの高くない人向けの、ごく初歩的な言葉です。ただし、「初歩的」とはいえ、多くの人間にはこの教えだけで十分ではないかと思われるほど、「基盤的」な言葉であって、プロの仏教者でも、「この教えが身に付いていないのではないか? お釈迦様が説かれた来世・輪廻を痛感していないのではないか?」と疑われる人が、少なくありません。》
輪廻が(ないしは死後の「裁き」が)ないと倫理は成り立ちません。「蒔いた種は刈り取る」「人になしたことは自分に返る」ということは、この世だけでは完結しないものだからです。
《神の子には、一人の例外もなく、善悪ともに“埋め合わせ”の原理が働くのですが、地上生活のみで判断しようとすると全ての要素を考慮することができなくなります。》(『シルバー・バーチの霊訓』第1巻、38頁)
このことについては前のエントリ「【生きるヒント】②悪人に報復する必要はない」でも触れました。そこに書いた空也上人のエピソードを再録します。
《ある時、上人が修行のため山を歩いていると、盗賊たちの一団が彼を取り囲んで「持ってるものをすべて差し出せ」とすごんだ。すると上人は突然大声で泣き出した。
盗賊たちはびっくりして、「なんだこの腰抜けは。そんなに俺たちが恐いか」と言った。
すると上人は言った。「お前たち、人間として生まれさせてもらえることでさえ有り難いことなのに、お前たちはそんなことをして自分を汚している。私にはお前たちのつらい後生が見える。それが悲しくて泣いているのだ」
盗賊たちはぽかんとし、気持ち悪くなって、何も盗らずに去っていった。》
津城氏は同記事の中で、「輪廻は仏教の前提」と述べておられます。
《輪廻は仏教の前提です。その基盤的なリアリティなしに、高度の技術(瞑想や勤行)を使おうとするのは、基礎体力も基礎訓練も基本装備もなしに、宇宙飛行に出ようとするようなものです。》
また、「教理になると「空」「無」を持ち出してくる」日本仏教者に対して次のような言葉もあります。
《初歩的な戒律をクリアできていない初心者が、それ以上の高度なものを自ら求める(ましてや他に要求する)のは、たいへん僭越、傲慢、危険なことではないでしょうか。》
このブログでも、「仏教は輪廻を前提としなければ成立しない」と繰り返し述べてきました(「【仏教って何だろう⑦】輪廻脱却がブッダの中心命題」参照)。
宗教学者がこうした発言をしていることは、注目です。
ぜひご覧ください。
中村元氏の翻訳は「真理のことば」など一般人も手に取りやすく、また読みやすいものですが、研究者は注意して扱っています。ただやはり中村元の残した成果はすごすぎます。こんな方は二度とあらわれないと思います。
それらの教えを知るために,後に解釈されたものではなく,当時の言葉こそが真実,原典にあたるべきと考えるのが当然だし,学問的だと思います。
でも,何千年前の当時のその地域の人間と現在の日本人である我々には大きな隔たりがあるように思います。その当時の人に対して語ったことは,その当時の人々のレベルに合わせて語ったに違いないからです。
とはいえ真理は一つ。とすれば,自分が,あるいは誰かが波長・霊性を高く持って,高次元からのメッセージにアクセスできれば・・・なんて考えてしまいました。
まったく仰る通りです。しかしそれが分からん僧侶が多すぎる。。ちょっとでも勉強すれば分かることなのに。天台の千日回峯行を成満した方から聞いた話ですが、拝み方、如来、神などとの交流というのは宗教によって様々だが目指すべきところは一つだと。木を見て森を見ずというようにはならないようにしなければ。