生き生き人生.

お出かけが、身体と心を元気にする。また、楽しい,うれしい,面白いこと,そして、ステキな仲間にも出会えます。

古城(山城)を行く  岡崎城

2017-05-24 17:21:34 | 歴史

城主  :藤田氏

築城者:藤田氏

築城年:南北朝時代(1336~1392年)

形態  :山城

本城は新居浜平野の中央部に東から西へ向かって突出した丘陵地帯の西はし、俗称、郷山の山頂

標高84mの地にある。西方眼下には、国領川が流れ、昔は、新居浜平野一帯を一望できたが

現在は,立木が大きくなり主郭からの国領川周辺の一部しか見渡すことが出来ない。

遺構は主郭と4つの曲輪しか確認できなかった。城主は、藤田氏である。

天文20年(1551年)、この年高峠城主石川通昌が金子山城主金子十郎に当てた書状の中に

藤田弥次郎の名が見える。おそらく藤田氏は、石川氏の被官であったものであろう。

戦国期(1467~1590年)には、山城守(やましろのかみ)芳雄と、その子大隅守(おおすみのかみ)俊忠が城主であったと言う

芳雄は、天正13年(1585年)の七月豊臣秀吉の四国攻めに際し小早川隆景(中国地方)の大軍を迎え、

金子備後守元宅(かねこびんごのかみもといえ)らとともに城主山城守(やましろのかみ)は野の市原に討ち死にし、

その子大隅守(おおすみのかみ)は一時三原に逃れ、戦後郷村に帰農し庄屋なったと伝えられる。

城下町の名も城の下ということから付けられた地名です。小早川隆景(中国地方)伊予進攻の祭金子元宅らとともに

西条市氷見高尾城で戦死し大隅守俊忠は一時芸州に逃れたが後、帰国して、その子孫は、

近世郷村の庄屋を勤めたと言う。城主の北麓薬師堂(上徳寺)の境内にある宝籭印塔葉山城守芳雄の墓と

伝えられ新居浜市金子の慈眼寺境内には、近世になって建立された大隅守俊忠の墓碑がある。

 

所在地  :愛媛県新居浜市上郷郷山

松山から国道11号線を高松方面へ→新居浜JR駅から→R133号線に入り四国中央方面へ

走ります。しばらく走ると、大きな国領川が見えてきます。国領川を渡ってすぐに右折します。

すぐ左側に、岡崎公園がありますので、そこに駐車できます。

数年前までは、市指定の岡崎城跡の表柱もあったようですが、

今は、手入れがないようで、ちょっと残念でした。 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 鹿島城(鹿島)

2017-04-07 16:06:00 | 歴史

城主  :二神豊前守(1573年~1592年)、得居通幸、来島通総、来島長親

築城者:今岡四朗通任(1334年~1338年)に風早郡那賀郷の地頭職

築城年:定かでない

標高  :114m

形態  :海城

鹿島城は、北条港沖400mに浮かぶ鹿島に築かれている。

1336年~1392年は、南北両朝が対立した時代である。これによって

河野通盛が河野郷から本拠地を湯築城に移したときであるので、

これらの新時局に対処するため横山城、宅並城の諸城とともに築城され、

海上前衛陣をなしたと考えられる。山上からは、風早郡松山市北条(旧北条)を

一望できる要害で島全体を城郭とした。鹿島城が戦国末期における城郭として、

その立地条件、社会条件から、重要性を帯びてきたことを示す。

1585年豊臣秀吉の征伐は断行された。このとき先鋒として活躍した

来島通総(みちふさ)は、風早1万4千石を領有し、鹿島城主に任ぜられた。

しかし、その子康親は、関が原の戦いで西軍荷担した為、豊後に転封となり

恵良城と共に廃城となった。

所在地  :愛媛県松山市北条

渡船待合所

鹿島城は、待合所から見えます。渡船で約3分で鹿島に着きます。

乗船します。

 

 

船が着いた正面が城への登り口です。

登る前に公園からの、風景や、砂浜を散策します

 

砂浜側に登山口が、新しく出来てましたので、ここから登ることにしました。しかし、

最初は道もきれいに出来て安心して、進みましたが、途中、突然道がなくなりました。

引き返すのも、面倒だし、急な坂には、見えましたが、登る決断しました。

 

上の道が見えてきた、もう少しだ・('ー^*) オッケ!!

ここが、主郭であったと思われる

主郭からの遠望

夫婦岩とよばれております。その大注連縄には古来より人々の願いや

想いが多く編みこまれており神聖な場所です。

又、鹿島周辺は、瀬戸内海有数の穏やかな場所です。

城跡を後にしながら、鳥、桜を撮影しながら、今度は、安全に従来の道を下りる

この石は、違うようです。城郭の周りに崩れた岩が、当時の石らしい!

北条鹿島祭り(毎年5月3,4日)があります。今年は、行きます。

(^_^)/~~サヨナラ

 

 

 

 


古城(山城)を行く 高縄山城(高縄山)

2017-03-27 17:33:22 | 歴史

城主  :河野通清

築城者:河野通清

築城年:(1181年)か

標高  :986m

形態  :山城

遺構  :不明

986mの現高縄寺境内の山上平坦部と推定されているが、山麓の、河野郷土居館(旧北条市)

河野地区一帯を中心として、その背後に位置する雄甲城(238.6m)雌甲城(192.5m)

の2岩峰と北東に高穴城(たこな)(292.1m)等、高縄山塊の諸城を含めて総称されたもの。

この山に、 城を築いて立て籠もったのが、伊予の豪族河野氏(通清)、当時

風早郡河野郷、今の松山市北条河野地区一帯を自ら開発した、在地領主といわれる

存在であった。河野通清が高縄山にたてこもったのであるが、ここが、河野通清の

館城であるわけでわない、平素は、善応寺に本拠の館城を構えていた。

高縄山は、敵を迎えての最後の拠点であり、高縄城といえば善応寺の館城と、その後方

左右にある雄甲山城(おんこう)、雌甲山城(めんこう)の2山と北東にある高穴山城(たこな)、

それに高縄山城を含めた呼称である。むしろ、高縄山城は、河野一門の武運を象徴する

代名詞的存在と考えられる。備後(広島)の国の住人額(ぬか)入道西寂(せいじゃく)によって

通清は討死。その子通信は、城を脱出してやがて静寂を討って、伊予における勢力を

回復した。河野一族は400年活躍して河野氏の本拠地は、風早郡河野郷に有る高縄城

に置き、1585年(戦国時代)滅亡までの250年間は、本拠地は湯築城(現在の県立公園)

から動かなかった。本拠地を湯築城に移した後も、河野郷土居を中心とする高縄城の

軍事的価値を重視した。

所在地  :愛媛県松山市立岩米之野

196号線北条バイパス2つ目のトンネルを出て約20分~30分車で

走ると、下記の交差点が見えてきます。そこを右に入る(17号線、玉川へ)

 

ここから、玉川方面へ約40分くらい走ると、下記のところがみえてきます。

看板(ハリアス)に、注目

左坂を下りてすぐ左に曲がったところの広場、ここは、川の反対側に

松山市役所立岩出張所がありますので、必ず許可いただくこと。

ここから、歩いて登山口までいきます。

ここから、986m登るのかウオオォォォォォォォー!!

高縄城登り口

現在は、2本、車で頂上まで行ける道路があります。ですから、今は、

歩いて登る人は、少ないので、手入れがされておらず、道は良くないです。

道路は、がけ崩れが、数箇所あり、道に石ころが多いので、足が痛く

疲れます。

今日は、天気もよく見晴らしもいいですね!

おお、も少しで、高縄城に到着みたい>>>>>>>

ヤレヤレヽ(~~~ )ノ到着だ、約3時間かかりました。

この寺(高縄寺)小千守興が、横谷に創営して以来、越智、河野家累代の祈願所

となっていた所で、1532年河野通宣の命によって現在の高縄山に移された。

お墓は、ない。

城は、高縄寺境内の山上平坦部と推定されるが、今の現状では、

わからない。

テレビ塔の最上部から見る、瀬戸内海の遠望は、いい眺めであり、

連山も美しい!

下山途中に、あ、カケスだヽ(`○´)/

エナガです。木にかぶって見えずらい!動きが早いトリなので難しい

今日は、朝7時30分出発、帰宅は 午後8時ごろになりました。。。

(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 高穴城(別名 高那城)

2017-03-18 11:00:15 | 歴史

城主  :高縄城の支城であったので、城主はいなかったのでは、ないか?

築城名:河野氏によって築かれたと考えられる

築城年:不明

標高  :292m

形態  :山城

善応寺、横谷(字高那)、院内(字高縄)の三村の境に有る高穴山、山頂292mにあって

高縄城の支城の一つ。

文明11年(1479年)細川義春が讃岐・阿波の軍勢を率いて伊予に侵攻した時、河野通生は

三十三台城に籠り高穴城は弟河野勝生に守らせた。天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐

では、小早川隆景が伊予に侵攻して高穴城は二神一族などが籠ってこれに対抗したが敗れた。

立地条件から見ると高縄山城の前衛拠点として構築されたものと思われる。

南斜面は、横谷の深い渓谷となっており斜面は急峻である。山頂からは、風早平野と

斉灘が眺望できる。曲輪、石垣、井戸などを見ることが出来ました。

山頂に主郭があり祠が奉られている。主郭の西下に東西に長い曲輪がありました。

1468年(戦国時代)足利義正の兵に攻撃された柴尾城主、越智道富、高手山城主越智道誘が

高穴城で戦死したと伝えられている。登り口から数百mは、杉林の中に細い道が

ついていましたが、しだいに、道がなくなりだしたので,白テープで木に目印を付けながら

登りました。頂上近くと、思われる城であろう周りの斜面は、急峻でがっちり固めているようです。

滑落しないように、慎重に注意しながら登り、ついに\(*^▽^*)/城攻め成功

安心は禁物、、降りるのが大変です。ここは、安全ロープを使って無事平地に降りることが出来ました。

 所在地:愛媛県松山市北条河野

松山中央より196号線を今治方面へ行く、→196号線二つ目のトンネルから約4km先信号を右に入る→善応寺を更に道なりに行く、ここから急な坂を登れば、一番近いらしいが、雑草が深く無理と判断し,もっと先へ行き、尾根を通って行くことにした。

橋を渡る 右は堰滝

 そろそろ道がなくなってきます(゜ロ゜)/オォー

そろそろ目印を付けて登ろう

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 塩ヶ森城(別名笹の城)

2017-03-13 08:47:17 | 歴史

城主  :河野通郷・戒能備前守(同一人物?)

築城者:定かでない

築城年:定かでない

標高  :526m

形態  :山城

塩ヶ森城は、現在公園になっておりツバキ、桜や、つつじなど、約2000本の花樹が植えられております。

キャンプ場、子供広場、展望台もあります。残念ながら、遺構は確認することが出来ませんでした。

所在地 :愛媛県東温市則之内(塩ヶ森ふるさと公園)

国道11号線東温市則之内交差点を右に曲がる。

次にそのまま数10m進むと(塩ヶ森ふるさと公園)の標識が見えますので、そこを右に

はいります。

そこからは、道なりに車で走ります。

車で頂上までいけます。

もう少しで到着します。

 到着です  ヤッホー(ノ^∇^)ノ

城跡の面影はなく、公園ですね 

花と風景を見て我慢しよう。このような山城が、公園になった所もたくさんあります

行楽シーズンです。桜が咲き始めると、たくさんの人が来るそうです。


古城(山城)を行く 鳥屋ヶ森城(とやがもりじょう)

2017-03-12 15:22:07 | 歴史

城主  :渡部忠綱、宇和川堯定

築城者 :定かでない

築城年 :定かでない

標高   :395m

形態  :山城

鳥屋ヶ森城は、塩ヶ森城の支城で現在は、公園になっており,城跡には見えない。展望台があり

遊具が置かれてるところが、主郭と思われる。遺構などは、見当たらない

所在地 :愛媛県東温市則之内保免

国道11号線則之内交差点を右に(県道210号線)に曲がり、そのまま数10m進むと

塩ヶ森・ふるさと公園の標識が見えてきますので、そこを右に入ります

道なりに、走ります。

 

ここに駐車します。鳥屋ヶ森城は、ここを登ります。

 

もう少しで着きます。\(・o・)/ワア!

(^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪でした

 展望台からの眺め

車で、近くまで行けます.登り道も安全ですので。天気の良い日は、眺めもすばらしいので

家族でお出かけには、十分楽しいところです。

 

 

 


古城(山城)を行く 吉山城(別名由井城)

2017-03-11 10:10:53 | 歴史

城主   : 和田河内守吉盛、平岡氏、和田通勝

築城者  :和田氏一族

築城年  :定かでない

標高    :263m

形態    :山城

築城年代は定かでないが、岩伽羅城の支城として、和田氏一族によって築かれたといわれる。

天文(1554年)岩田通興が主家に叛いて、荏原城主平岡房実によって攻められ、和田道興

が自刃すると、和田氏の所領の三分の一が平岡氏に与えられ吉山城も平岡氏の属城と

なったが、その後、吉山城は和田氏に返還されたようである.主郭は南北に長く北端に

土塁が付いており吉山城の石碑と社が祀られている。

所在地 :愛媛県東温市樋口字城の谷

旧11号線を川内方面へ車を走る。すると重信総合公園(ツインドーム)入り口が見えてくる。

そこから約300m~500m先を新国道11号線に出て,約10mくらい先を左に曲がる、すると志津川墓園が見えてくる。

林道山にはいります

\(*^▽^*)/もう少し!

ここから、登りになります これは、(;◎_◎)ノ ヤバヤバ

赤線のところは、砂地で滑落します。黄色の線に沿って登ってください。

 

到着 \(^_^)/

来た道を。降りるには、非常に危険ですから裏の曲輪から林道に下ります。

この城は、車で登り口まで行けますが、最後の登りに十分注意が必要です。

 

 

 

 


古城(山城)を行く 岩伽羅城

2017-03-09 22:16:31 | 歴史

城主  :和田通興

築城者:和田一族

築城年:定かでない

標高  :696m

形態  :山城

天文23年(1554年)=戦国時代、和田三河守通興が叛いたことから

河野通宣から和田氏追悼の命を受けた荏原城主平岡房実によって

攻められ、岩伽羅城は、落城して和田通興は自刃して果てた。

その後、平岡氏には和田氏の所領の三分の一が与えられ、吉山城も

一時平岡氏の属城となった。和田氏は、通勝が継いで岩伽羅城主と

なったが、天正13年(1585年)通勝の子ときに、豊臣秀吉寄る四国征伐で

河野氏は、滅亡し和田氏も運命をともにした。

所在地 :愛媛県東温市重信町

国道11号線、ここを左に回り旧11号線にはいる。

 しばらく走り、東温市重信町に入ると、東温市総合公園(ツインドーム入り口の)看板が見える、

この先を左に入る(内川橋を渡る)

突きあたりを、右にとりお墓に沿って走る。(坂道)

 

しばらく山の林道を走る

 

上から、人が下りる降てきたので尋ねると、岩伽羅城入り口までは、道路は、ついているが、途中からは非常に道が悪いので自動車の廃車が、あるところまで行き、そこへ、車を置いて歩けと教えてくれたので、そこに向かって走ります。

ここから林道を歩きます。

 

┐( -"-)┌ヤレヤレ...入り口に着いたぞ<<

さ、ここからが、少し難所の道になりました。

もう少しで到着。。。。。。

到着です。ここが本丸らしい ((o(^-^)o))わくわく

今日は、眺めもいい!<(; ^ ー^) マイッタマイッタ...カメラの影響で写りが悪い

弁当食べて、 一休み 歩いた時間は、一時間30分くらいかな。。。

記念撮影です   \(*^▽^*)/

 

 

 


古城(山城)を行く 龍王城

2017-03-08 18:05:01 | 歴史

城主   :久保氏、床崎氏、城戸氏

築城者 :久保高実、室町時代(1336~1573年)推測

築城年 :越智(後の河野)喜多守が平安初期(794~1185)初めて砦を築き七代目の益躬にいたる間、居城してた  

標高   :170m

形態   :山城

天正の初めには、城戸直宗が居城したが、曽根宣高が土佐の長宗我部氏の援助をうけて

これを攻略した。そこで直宗は、河野氏の援兵によってこの城を奪還したるも天正五年

(1577年)七月十四日夜再び宣高の猛攻を受け落城した。宣高は客将の河内駿河守吉行

を城代として、この地域を統治させた、天正十三年(1585年)に豊臣秀吉の四国征伐にあい

曽根城主の宣高は、征討軍の小早川隆景に降伏したので龍王城もついに廃城となった。

室町時代(1336~1573年)の初期の城主は、久保高実である。地頭としてこの

地を領していた。高実は、松前城の合田弥四郎とともに、伊予の南朝方として活躍した。

戦国時代は、城戸氏が城主で曽根城主の曽根宣高(内子町)との、戦いに敗れ滅んだ。現在は、

龍王公園として、展望台があり、周辺は、四季折々の花が見えます。又、フィットネスクラブや

、温泉(冷泉)などあり、地元の人はもとより、他方からも利用されています。現在の光景では遺構は

難しい・・・・・

所在地 :愛媛県内子町五十崎

内子ICをおりて、約500~600m大洲方面に行く

約500~600m走り二つ目の信号を左(五十崎方面)へ

左に曲がるとすぐ左へ(標識あり)

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 曽根城

2017-03-08 11:54:38 | 歴史

城主  :祖祢(祖根と呼ぶ)高昌

築城者 :祖祢高昌

築城年 :1532~1555【戦国時代)と推定

標高   ;110m

形態  :山城

伝えるところによると、祖祢高昌と言う武将が、この地に住み着き、内子、祖祢の祖になったと言われてる。

豊臣秀吉の権が伊予へも及ぶようになると,曽根城は、小早川隆景(中国地方)によって廃城になり祖祢氏も伊予を離れ

毛利氏(中国地方)を頼り、近世には、萩藩(山口)の家臣となる。西方への麓川を越えたところには、高昌神社があり

境内の奥には、祖とされる、祖祢高昌の墓碑が立ちその手前には、高昌妻女と次代の宣高夫妻の墓碑がある。

(全て後世に立てられた)。登り道は、非常に悪く竹やぶの中を通るとイノシシの荒らした跡が数箇所あり

登りずらい。頂上に着くとコンクリート柱(曽根城跡と書かれた)が立てられており、本丸と思われる。大きな

広場について周りを見渡すと、立ち木や雑草で2の郭、3の郭、又、石積、堀きりなどは、見つけることが出来なかった

文献上は、郭、堀きり、石積もあるらしいので、再度確認したいと思いました。

戦国末期の城主は、宣高で、天正年間(1673~1692年)に五十崎町の竜王城、城戸氏と争ってこれを破った

ことが知らされている。天正13年(1584~1587年)小早川隆景の伊予進攻後、廃城となった。

下城した祖根氏は、近世には喜多郡内各地の庄屋となった。内子町高昌寺、同氏の菩提寺である。

道路の下から山が見えます

民家の横を通る

滑落するような崖は、見あたらない!!

近くまで来たようです ((o(^-^)o))わくわく

到着だ~   \(*^▽^*)/

上空をトビが気持ちよさそうに何度も旋回してました。

愛媛県内子町城回

松山から56号線を大洲方面へ→中山町を過ぎて車で約30分くらいで城回の小さい標識が

見えてきます。注意しながら進むと、下記の大きな表示板が見えます。そこを右に入ります。

さらに走ります、スピードは出さないこと!時々やってますよ???

坂を登ります

右折して約30mくらいで到着です

高昌寺へ行くには、下図のように行ってください。

すぐ高昌寺が見えてきます。ごゆっくり見てください、駐車場も上に広く

ありますので、安心です。終わったら、町並みコースを歩くのも楽しいです。

 

 


古城(山城)を行く 汗生城(あせぶじょう)

2017-02-27 10:53:45 | 歴史

 

城主  :冨永直安

築城名 :冨永直安 :橘城野支城である(橘城は、愛媛県内子町(旧五十崎町)

築城年 :1558~1569年

標高  :160m

形態  :山城

 

 

戦国時代(1467~1590年)橘城の支城(城攻め、また城守り)として築かれ

冨永直安が居城した。大洲市肱川町宇和川、汗生(あせぶ)集落の西のほうにあり、

城跡からは、肱川の流れを北方の眼下に収めることが出来る。城跡の東、西、北方斜面は

急峻な崖で南方のみ、尾根で、背後の山につながってる。

この一角には、本城とされる橘城がある。六つの郭のある支城としては、大変大きい。

地図を見ながら車で城であろう山の近くまで行くと、案内板もなければ、道らしき道は、

まったくない、森林と、雑草で、行く手を阻まれていて、捜すのにはちょっと厳しい(;◎_◎)ノ

ヤバヤバと思いました。早速地元の、中野様宅を訪ねると、うわさぐらいで場所は、だいたい。。

すぐには、見つからないけど、一緒に探そうといっていただき薄暗い林の中へ、降りて行きました。

探すこと、約1時間、すると中野さんから、どうもここらしいといってくださり、不思議に

元気が出ました。見つかりました。\(*^▽^*)/確かに汗生城(あせぶ)跡と書いた

コンクリート柱が立っており大変うれしい限りでした。疲れも吹っ飛びました。

一緒に探していただいた、地元の、中野様、本当に感動を頂きまして有難うございました。

今回は、写真が、少ないですが本丸とおもわれる囲いは、急峻です。

堀きり、石垣、土塁などと思われる跡は見ることが出来資料を見て

支城としては、攻撃、また、守りを固めた城だったことを想像することができました

出来れば、もう一度一人でゆっくり調べたいと思いました。

所在地 :大洲市宇和川3764

ルート :高速道路松山IC~内子ICを降り左に行く、すぐに内子町市役所(旧五十崎)前を走り

     すぐ右の橋を渡り左折して、しばらく道なりに走る(左岸は川です)しばらく走ると

     松岡木材所が左側に見えます。そのすぐ先を左折(橋をわたる)しばらく走ります。

     すると、大洲高校分校が左に見えてきます。このグランド地点から右斜め方向に

     登って行きます。その頂上の右下に城のある山です。民家が3~4件あります。

 *  :平成28年4月10日登る


古城(山城)を行く 横山城

2017-02-26 14:38:12 | 歴史

 

城主 ;河野通武 ;その後通武の子孫が、南氏と名乗って代々城主である。

築城名;河野通武 ;1334~1336年

築城年:1334~1336年

標高 :460m

形態 :山城

本城は、瀬戸内海からの湯築城の前衛拠点であった(瀬戸内海を見張ることが出来る)

本城は、通武の子孫である南氏が代々ここを居城としていましたが、1582年に

小早川隆景(中国)=広島県安芸市。に攻められて落城しました。

城郭の大きさは、幅35mぐらいで、ほぼ西北帯状に伸びる約270mの本丸、出丸、馬乗り駄馬(だば)

の三つに分かれており、本丸と思われる中ほどには、太鼓岩と呼ばれる大岩があり、

大岩には、雨水をためたと思われる彫刻が、2ヶ所ある。また堀きりと、ともに

建物に使われた柱の柱穴が数十個あり、石段や貯水槽に使われたと思われる彫られた石があった。

立ち木が大きくなって景観はよくないな!昔は瀬戸内海が一望できた

今は、見張り番には、なりませんヾ(@^▽^@)ノわはは

もう少し、これからが大変 (。_。)ウンウン

だんだん城に近ずいてきた。。(;◎_◎)ノ ヤバヤバ

到着  (^ー^)お疲れ様でしたぁ~♪

大岩のすぐ下は、平たんな地面があり、そこが本丸です。

岩には、水をためる穴、そして柱を組んだであろう穴がたくさんあります。

また、巨大な石の上で現在も生きいる木を想像してください。

所在地 :松山市麓野外活動センター(キャンプ場)から登ります

   * :平成28年10月12日登頂したものです。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城(山城)を行く 埴生城

2017-02-24 23:14:50 | 歴史

 

城主 :埴生(はぶ)氏 河野家代々の重鎮

築城 :築名者及び築城年代不明

海抜 :118m

最後の城主は、埴生加賀守盛周であった。1585年9月豊臣秀吉の

四国征伐のさい道後湯築城主(河野通直)が降伏し、よって(埴生氏)も

城を明け渡した。現在の(垣生)の地名は(埴生氏)からつけられたもの

現在は、公園になっており城跡の遺構などは、見当たらない。多分

形態は、平城叉は、丘城か?????

この垣生山は昔からの雑木などで荒れ放題であった。雑木などを伐採し、きれいな山になったそうです。

現在は、3月上旬には、陽光桜が咲き、次に頂上のソメイヨシノ桜が咲き、5月~6月にかけて山ツツジが

垣生山一面に、朱赤色や紅赤色のかりんな花を咲かせます。

四季折々の眺めは、また格別である。

登り口は、3ヶ所あります①北吉田側から②高岡町の高岡団地から③津田バス停から

駐車場はありませんので、ご注意ください。私は、②の方法で自転車で、登り口まで行き

そこから登りました.②の方法ですと、高岡町の生石小学校の門からみえます

道ばたに夢心地香りの水仙が咲いていました。ここで、一休み┐( -"-)┌ヤレヤレ...

よく晴れた風の穏やかな日で、眺めも最高\(*^▽^*)/

\(^_^)/埴生城到着です。 おつかれー<<<<<

天気のよいときは、本当に眺めがすばらしい

ご家族で,軽装でいけます。天主閣のある近代の城もいいですが、

中世時代(室町時代~戦国時代)の山城も、おもしろいです。

 

 


古城(山城)を行く 宅並城

2017-02-23 19:12:53 | 歴史

 

城主 ;不明  1585年ころの城主 :栗上左衛門尉

築城 :不明   1334年~1338年と思われる

標高 :200,9m

海からの侵略を備えた山城といわれてる。

城郭(現在は公園)と思われる立地から見れば海からの侵入に備えた城郭で

風早平野(昔は、北条地区を風早郡といっていた)。駐車場は、上の看板のところに

10台前後は駐車できます。

体力に自身のない方は杖があります(*'へ'*) ンー

道は、十分整備されていますので、安心して登れます。

あ、やったーヤッホー(ノ^∇^)ノ  イカルだ!

野鳥もいるんだ!  (`∇´ )にょほほほ

\(^_^)/ 城郭に到着 数年前から公園に整備されておりますので

遺溝なるものは、まったく見つかりません。

眼下見下ろす北条の町並み。斎灘の澄んだ青い海に遠くに見える島々

なんとすばらしい絶景です。

 

この山城は、公園になっており、道も整備されていますので、家族で楽しく

登れます.四季折々の花が見れます。私は、この旧北条の山々と青い

海との調和がなんとすばらしいことでしょう、旧北条が大好きです。

次回は、昨年末に登った山城、雄甲山城(おんこう)と雌甲山城(めんこう)

善応寺それから、横山山城、そして今年の1月に登りまして道に迷い

苦戦しました、恵良山城を投稿予定にしてます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


古城〔山城)を行く 日高山城

2017-02-22 22:52:26 | 歴史

城主 :重見通宗  居城

標高 :376m

日高山城は南北約280m急なⅤ字谷となっている。稜線に沿って登れば高縄山に通じる。

この山城は、今治街道からの侵入を防ぐとともに、高縄山城の前衛基地として、創建された。

天剣を利用した要害の城である。

また、重見道晴は、河野氏一族であり、1585年中国地方の小早川隆景と戦い日高城は

落城して一族の多くは、自害した。

標高葉、376m、下から見上げることができましたが、道が悪く川の橋が落ちて

降り、川を渡ってまたもとの登り道に引き返すなど、かなり厳しいところでした。

これは、ヒノキの木材ですが、根がむき出しになっていますが、まっすぐ

生き延びております。(⌒▽⌒;) オッドロキー

曲輪と思われるところが、2箇所と、本丸が見つかりました。

石塁,土塁、堀きり、などは、見つけることが出来なかった。

竹の種類で、見たことない珍しい竹だそうです?????

これは、石です。30cm~50cm、深さ約10cm、用途は何か??

\(^_^)/日高山城に到着

ここが、本丸です。

立ち木が多くて視界は、悪いですが、数10年前は、北条の街並みと

青く波打つ北条沖の島々が一望できたことでしょう。

中村三十三墓

河野氏の流れをくむ戦国武将重見一族の墓と考えられる。

日高山城、最後の城主重見道晴は、1585年豊臣秀吉の四国征伐のとき

小早川隆景の軍に攻められ落城、多数家臣らとともに戦士。重見氏は滅亡した

墓は,丘陵地帯に散乱していたものを明治初期に現在のところに集めら得たものと

思われる。

今回の日高山城の探索にあたり、大変お世話になりました地元の

森岡功様、私は、山城に登るときは、下調べをしていきます、今回も

数日前には、地図を見て近くまで行きました。その時お会いしたのが

森岡様でした。たずねると、すぐその上だから地図を描いて送りますといって

頂き、翌日には丁寧にわかりやすい地図を送っていただきました。天候の関係もあり

先日行くことになり、登る前に挨拶しましたところ、案内していただくことになりました。

森岡功様本当に有難うございました。心よりお礼申し上げます。