城主 :藤田氏
築城者:藤田氏
築城年:南北朝時代(1336~1392年)
形態 :山城
本城は新居浜平野の中央部に東から西へ向かって突出した丘陵地帯の西はし、俗称、郷山の山頂
標高84mの地にある。西方眼下には、国領川が流れ、昔は、新居浜平野一帯を一望できたが
現在は,立木が大きくなり主郭からの国領川周辺の一部しか見渡すことが出来ない。
遺構は主郭と4つの曲輪しか確認できなかった。城主は、藤田氏である。
天文20年(1551年)、この年高峠城主石川通昌が金子山城主金子十郎に当てた書状の中に
藤田弥次郎の名が見える。おそらく藤田氏は、石川氏の被官であったものであろう。
戦国期(1467~1590年)には、山城守(やましろのかみ)芳雄と、その子大隅守(おおすみのかみ)俊忠が城主であったと言う
芳雄は、天正13年(1585年)の七月豊臣秀吉の四国攻めに際し小早川隆景(中国地方)の大軍を迎え、
金子備後守元宅(かねこびんごのかみもといえ)らとともに城主山城守(やましろのかみ)は野の市原に討ち死にし、
その子大隅守(おおすみのかみ)は一時三原に逃れ、戦後郷村に帰農し庄屋なったと伝えられる。
城下町の名も城の下ということから付けられた地名です。小早川隆景(中国地方)伊予進攻の祭金子元宅らとともに
西条市氷見高尾城で戦死し大隅守俊忠は一時芸州に逃れたが後、帰国して、その子孫は、
近世郷村の庄屋を勤めたと言う。城主の北麓薬師堂(上徳寺)の境内にある宝籭印塔葉山城守芳雄の墓と
伝えられ新居浜市金子の慈眼寺境内には、近世になって建立された大隅守俊忠の墓碑がある。
所在地 :愛媛県新居浜市上郷郷山
松山から国道11号線を高松方面へ→新居浜JR駅から→R133号線に入り四国中央方面へ
走ります。しばらく走ると、大きな国領川が見えてきます。国領川を渡ってすぐに右折します。
すぐ左側に、岡崎公園がありますので、そこに駐車できます。
数年前までは、市指定の岡崎城跡の表柱もあったようですが、
今は、手入れがないようで、ちょっと残念でした。