楽善な日々

新社会人となった楽と、大学生善、おとん、そしておかんの日々を綴ります。新しい街に引っ越して、新しいスタートを切りました。

暑い夏に地球を考える

2022年07月01日 | 2022年日記
梅雨が明けて、
来る日も来る日もカンカン照り。

ドアの取っ手に挟んであった朝刊が
じりじりと温められて、湯たんぽみたいにほかほかになっていた。

英語の勉強のために読んでいるBBCのニュースにも
"Europe heatwave breaks multiple June records"
「ヨーロッパ諸国を襲っている熱波、6月の数々の記録を更新」

地球は大丈夫かなと心配になる。

山から熊が下りてきて、住宅に侵入するニュースもある。
山も暑さでからからで、食べ物でも探しに来たのだろうか。

地球に優しく暮らしていきたい。
日々できる小さなことに気を付けながら。

宮沢賢治の「狼森と笊森、盗森」の一場面が好きだ。

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そこで四人よつたりの男たちは、てんでにすきな方へ向いて、声を揃そろへて叫びました
「こゝへ畑起してもいゝかあ。」
「いゝぞお。」森が一斉にこたへました。
 みんなは又叫びました。
「こゝに家建てゝもいゝかあ。」
「ようし。」森は一ぺんにこたへました。
 みんなはまた声をそろへてたづねました。
「こゝで火たいてもいいかあ。」
「いゝぞお。」森は一ぺんにこたへました。
 みんなはまた叫びました。
「すこし木きい貰もらつてもいゝかあ。」
「ようし。」森は一斉にこたへました。

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森に許可を取って
「いいぞお」と言われたことだけしていけたらいいのだけど。

戦争が1万年以上もなかった時代があるそうだ。
それは、縄文時代らしい。
そんなに長い間戦争がなかった時代などないという。
なぜそれほどの長きにわたって戦争がなかったのかというと、
「所有」という概念を人々が持たなかったから。
弥生時代になって、
「ここが私の畑」と土地を四角く区切るようになってきてから、
戦争が起きるようになったのだそうだ。

みんなの地球だ。
森に「いゝかあ?」と許可を取りながら、
大事に大事に住んでいきたい。

7月1日 おかん

子供たちが覚えていない思い出

2022年06月30日 | 2022年日記
結構、前のことだけど、
お気に入りの青いジャンバーのポケットから
色んなものが出てきたことがある。
(それで、クリーニングにずっと出していなかったことが判明した)

ピンクの螺旋模様の入った、縄跳びの切れ端
バランスよくY字になった木の枝
表面のつるつるした小石

楽と善が保育園に行く道すがら拾い集めた、気になるもの達だ。

二人を保育園へ送っていく道中は
なかなか前に進まず苦労していた。
保育園が全然近づいてこない。

それもそのはず
目線が地面に近い二人には、気になるもの達がたくさん目につくから。
「おかーん、こんなんあったでー。ポッケ入れといて」
「おかーん、見てみーやあー」
やれやれ。

ある日、道端にほどよい長さの縄が落ちていた。
「しめた!!」
拾って、楽と善に見せてみる。
「見て~。電車が落ちてたよ!!一列に並んでくださーい」
おかんが先頭になって縄を持ち、楽が後ろで縄を持ち、善が最後尾。
「では、出発しまーす!!シュッシュポッポ~」
その日は、すんなりと保育園へ着いたとさ。

夕方、保育園へ迎えに行きながら、
お味噌汁に入れる具材を考える。
「楽、善、野蒜(のびる)ってすぐ見つかる?」
「簡単に見つかるけえ、一緒に裏山行こう!」
保育園には裏山があって、そこには、野蒜やら蕨やらが生えている。
へびもいる。
裏山に回って、楽と善に任せて、見守っていると、
頭が白い球根のようになっている野蒜をたくさん採ってきてくれた。
今夜は野蒜のお味噌汁に決まり。

夜になって、布団を敷くと、楽が言う。
「『かまじい』して~」

『かまじい』とは「千と千尋の神隠し」の釜爺のことで、
窯爺が傷ついたハクに布団をかけてあげるシーンからできた言葉だ。
「かまじいする」は、「布団をかける」という意味。

これらの思い出を覚えているか聞くと、
「なんとなーく」
「ん~、覚えてなーい」
と返ってくる。

当の本人たちは忘れちゃって、
私の中だけに生き生きと存在する思い出。

「森本哲郎 世界への旅」によると
「ファーブル昆虫記」の中でファーブルはこんなことを書いているらしい。

「好奇心が目覚めて、おぼろげな無意識の状態から我々を連れ出す楽しい時代よ。おまえの遠い思い出は、私の一番幸福だった頃を、もう一度甦らせてくれる」

楽と善の、幸福な好奇心の時代は、
私しかはっきりとは覚えていないようだけど、
二人はまるで、楽園にいるように、毎日楽し気に暮らしていたよ。

6月30日   おかん


変人の勧め

2022年06月29日 | 2022年日記
HSP気質というものがあるらしい。
神経が過敏に働くので、人より多くのことに気が付き、
気が付きすぎて疲労してしまう。
どうやら私もそうらしい。

私が特に気が付くのは、人の感情の揺れ。
ちょっとでも機嫌が悪そうな人がいると、すぐに気が付く。
その人が機嫌の悪さを表に出していなくても、すぐに気が付く。
そして、自分に何の関係もないのに、気になって気になって仕方ない。
気になりすぎて、関係のない私が挙動不審になってしまう。
どうにか平和な空気を取り戻そうと(何の関係もないのに)
気を遣い、動き回り、空回りして、疲れ果てる。
何をしているんだか。

人の感情の揺れに敏感な私は
小さいころ、電車が苦手だった。
色々な感情を持った人たちが狭い車内にぎっしりといるものだから、
人の感情の波に溺れているような気持になってくる。
そのうち、本当に空気が吸えない感覚になり、
陸にあがった魚のように口をぱくぱくとしたりして。

人の感情が平和であってほしいと願うあまり、
八方美人だ。

「おかんちゃんは、柔らかいイメージ」
「おかんちゃんはいつも笑顔」
とよく同僚には言われるけれど、
八方美人だと、真実味から遠ざかっていくようなイメージがある。

この間、伊藤比呂美さんのトークショーを見ていたら、
伊藤比呂美さんお得意の悩み相談コーナーがあった。

「八方美人になってしまう。どうしたらよいでしょうか」

おお!答えに注目。

「変人になることです」

なるほど。

「おかんちゃんは変人だからね」
という感じになれば、人に気を遣わないようになれるかもしれない。
少し楽になれるかもしれない。

今日読んだ本に
「生き方の下手なことは、逆説のように響くが、
じつは生き方の正解である場合がしばしばある」
とあった。

すぐに、意味もなく疲れてしまい、
生き方の実に下手な私だけれど、
「変人」というキーワードと、
下手でもいいよ、という励ましを受け止めて
これからも下手だけど生きていこう。

6月29日  おかん





生きること 死ぬこと 

2022年06月28日 | 2022年日記
本棚が林立する和室に
ヨガマットを敷いて、汗だくで色々なポーズを試す昼下がり。

ポーズをとっている最中にふと目にとまった本がある。
「森本哲郎 世界への旅」全集。

9冊目を選んで読んでみた。
副題が「生き方の研究 続生き方の研究 あしたへの旅」
とあって、なんだか興味をひかれたから。

最初の章は「人生の短さについてーセネカ」

シェイクスピアは人生を「束の間の灯」と言ったそうだ。
人生50年という時代もあったのだから、
今の私は人生を生き切っていることになる。
夏目漱石も、松尾芭蕉も50歳で亡くなっているらしい。
松尾芭蕉はもっともっとおじいさんだと思っていたのに、年下だったとは。

私の52年も、必死で生きているうちに、あっという間に過ぎていった。
外国から日本に帰ってきて、カルチャーショックと戦っている日々あり、
おとんと出会い、楽が生まれ、善が生まれ、家族を作っていく日々あり、
転勤族となり、各地を転々と移動していく日々あり、
様々な仕事と出会い働く日々あり、退職して介護に取り組む日々あり。
ふと気が付くと、もうこんなところまで来ていた。
あっという間の52年。

でもセネカは言う。
「人生は短いのではない」と。
『われわれがそれを短くしているのだ』と。

人はどうしても心が忙しくなってしまう生き物だ。
他人の意見に左右されたり、人と比べたり、
欲望を満たそうとあくせくしていたり、
見栄や嫉妬で心がいっぱいになってしまったり。
いつも、心がざわざわしている。

高級レストランでコース料理を食べているとする。
アペタイザーは美味しそうだけど、
心がざわざわ忙しすぎて食事に集中できない。
気が付くと、食後のコーヒーが出されていた。
メインメニューはなんだっただろうか。
デザートなんて出てきたかしら。
なんていうことにもなりそう。
食事会が、人生に置き換わったとしたら、どうだろう。
気が付かないうちに終わってしまうなんて、悲しい。

セネカは勧める。
「毎日毎日を最後の一日」のように思って生きることを。
「それは、明日を頼りにして今日を失わないことである。
そして、多忙(心の多忙)からできるだけ解放されることだ」

食事会は一度きり、と思うと、
どのメニューも味わいつくして食べたいと思うはず。
「このお肉のジューシーなこと」なんて感想を言いながら。
人生も味わいつくしていきたい。
甘いものから、辛いものまで、
全部を味わっていこう。
そうするためには、心を忙しくせず、
足るを知ることが大事。
あれもこれもと心を忙しくせずに、
目の前にあることをじっくりと経験していこう。

最後に書かれていたセネカの言葉も興味深かった。
「生きることは生涯をかけて学ぶべきことである。
 そして、おそらくそれ以上に不思議に思われるであろうが、
生涯をかけて学ぶべきは死ぬことである。」

生きること
死ぬこと
足るを知ること

学ぶことはたくさんある。

6月28日  おかん









ミニマリスト VS マキシマリスト

2022年06月27日 | 2022年日記
あまりに暑いものだから、
活発に動く気力がなくて、
ごろ寝をしつつ、スマホでトークショーを見ていた。
私の好きな、伊藤比呂美さんのトークショー。
「夫婦は覇権争いをしている」
という台詞が面白かった。

うちはどうだろう、覇権争いはあるのかな。
そう思って考えてみると、主義主張の違いがあることあること。
中でも真逆ともいえる性質がひとつあった。

ミニマリスト VS マキシマリスト。

私は昔から物に執着がない。
極端に執着がないので、変人の域に達している。
他の人へのプレゼントを買いに出かけることは好きなので、
自分の持ち物に執着がないということか。
ここ数年は新しい洋服を一着も買っていない。
断捨離をしている母と楽から、何着かもらったくらい。
母が30代のころに着ていた春夏用の7分袖シャツは私のお気に入りだ。
洋服って長持ちするものだなあ。

最近はミニマリストが流行ってきているけれど、
私はずっと昔からそんな感じ。歴史は長い。
バブル景気も、着古したジーンズと何枚かのTシャツと、
ディスコ用の一着で乗り越えてしまった。
ブランド物も、大人になったら興味が出るのかと思っていたけれど、
ずいぶんと大人になったのに、まだ欲しくならないようだ。
バブルの勢いにさえ微動だにしない、変人の域。

おとんが単身赴任しているころは、冷蔵庫には物があまりなかった。
「大変だ!冷蔵庫が空っぽだ!」
としばしば雄たけびをあげていたっけ。
物がなくなってから買う、の繰り返し。
そのおかげで、捨てる食材はあまりなかった。

一方、おとんは物大好き人間だ。
凝ると同じ品物をいくつでも買う。
例えば、帆布のカバンが好き。
今や、いくつ持っているのかさえ分からないくらい。
好きなものに囲まれて、幸せを感じている様子。

本も好き。興味を持つとすぐにネットで購入するから、
家には、本棚に収まりきらない本が、所かまわずゴロゴロしている。
「おとんのせいで家が片付かない!」
と怒られている。
ただ、悪いことばかりでもないようで、
家のいたるところに本が転がっていると、
知らず知らず手に取って、面白いと読みふけってしまうことがよくある。
おとんのおかげで、たくさんの本と出会えた。
楽は、向田邦子を卒論の題材にしたのだけれど、
すでにおとんの本棚に何冊もあって、そこでもまた役にたっていた。

おとんの単身赴任が終了して、しばらくすると、
冷蔵庫に物があふれだした。

おとんは冷蔵庫にぎっしり物があると安心するらしい。
そして、単純に食材を買う行為が好きらしい。
ただ、仕事帰りに気の向くまま買ってくるので、
結果、卵3パック、牛乳3パック、トマト3パックと重なってしまう。
そうなると、悪くして捨ててしまうこともしばしば。
最近は、私が怒るので、だまってこっそり捨てるようになってきた。
結局はばれて、カミナリを落とされるのだけれど。

ミニマリストVSマキシマリスト。
この覇権争いは、永遠に続く。
どちらが勝つのか?

先日、散歩中に店先で売られているガラスの花瓶がかわいくて、
「かわいいね。見てごらんよ」
とおとんに声をかけた。
それ以降、おとんは、どんどん花瓶を買ってくるようになった。
食卓に林立しはじめた花瓶たちを見て、
「まあ、マキシマリストでも、良いのかな」
などと、私の機嫌がよいときは、思ったりもする。

6月27日  おかん