その風光明媚に魅かれて、好んで何度も同じ土地を訪れると、いつしか心も体もその風光に溶け込み、一体感に近いものに包まれる。慣れる。その土地へ自分が行くという形からこの心にその土地が根付くという形になる。その風光に現地で接する以前に、僕の体も心もその風光に溶け込んでいる。その土地での思い出を思い出すたびに、そういう優しい感覚を覚えてうっとりすることがある。空の色や山の形がいつとは知らずに心の奥に潜んでしまっているのだ。外部世界に実在する川や滝や山の姿は、いつもせせらぎの音や涼しさや崇高さで僕の心を酔わせて僕の心の中に忍び込もうとしいているのだろうか。
どこにいようと、そこが多分世界の果てだろう。同時に、世界の中心だろう。そう思いたければ思えばいい。どうせ言葉の遊びだ。人はある時、自分自身の存在についても、自分が知る宇宙全体についても、測り知れない偶然性を帯びているように感じる。「自分は何の理由もなく、ここにいる」という感覚が鋭く生じる。驚愕と恐怖の瞬間であり、そして歓喜と不安の瞬間でもある。命あるものはすべて、いつ巨大な虚無の中に飲み込まれてもおかしくない。生きていることが既に一つの小さな偶然ならば、その偶然がいつまで続くかはまさに偶然が決めることになる。一つ一つの新しい瞬間が同時に生と死への入口になり得る。故に、人並み以上に剛健な者でも、しばしば、曖昧な不安と恐怖の中で、自分に残された時間を数え、その意味付けを自分なりに試みようとする。果敢無い一瞬、それに続く一瞬。このまさに逃れ行くだけの瞬間、「今」。そこはまばゆい未来への入口でもある。「今」が未来に繋がっていると思うと、いつも軽い眩暈が起きる。未来は天国でもありうれば、地獄でもありうる。まさに一か八かだ。誰でも生きようとする限りは冒険者にならざるを得ない。心が自分の慣れた棲家から何かを求めようとして飛び出そうとする決定的瞬間があるが、この心の飛び出しが冒険の本質ではないのか。ゼロから1への飛躍、これを冒険と呼ばずに何と呼べばいいのか。冒険には不安が付き纏う。誰がこの不安を打ち破る魔力をつかめるだろうか。自己暗示が必要になるだろうか。なるだろう。人は、常に既知から未知の世界へ踏み出していくような構造の中にいる。外部の風景ではなく、死または死の観念に慣れてくると、人はどういう未知の世界へ踏み出して行くのだろうか。あるいは、どういう死の観念が心の中に潜むようになるだろうか。悟っても愚、悟らなくても愚。凡愚の人生の大半は、遅疑逡巡の中で、あるいは、惰性的反復の中で空しく費えるだけなのか。費えるだけなのだろう、残念ながら。
2009年7月17日、金曜日朝、僕は多治見の自宅から山梨県北杜市大泉町へ向かった。八ヶ岳いずみ荘のテニスコートの予約は、13時から16時までだった。曇り空の下、僕はサーヴの練習をした。サーヴを打つ前の構え、特に、ラケットヘッドを地面に向けた時の、利き腕の右手の甲を体側にひねることの重要性を再認識した。この秘訣は、しかし、誰にでも当てはまるものではないだろう。フォームは人様々だからだ。誰でも自分自身に必要不可欠なものとしての秘訣を発見することが重要だ。万人に当てはまるような秘訣は秘訣の名に値しない。コートはオムニで、6面あった。他には誰もいない。時折、西の林でカッコウが鳴く。こういう雰囲気が好きだ。1時間程度練習した。雨が降ってきた。練習を切り上げた。短時間だったが、思いも掛けない良い収穫を得ることが出来た。
その夜、ペンション「ロッジ山旅」に泊まった。去年の夏も泊まった宿だ。ここの主人は、「山と渓谷社」発行の「新・分県登山ガイド」の「山梨県の山」を執筆した人だ。去年の紀行ではぼかしたが、冷静に考えれば、別に隠す必要もない。彼の名は長沢洋氏だ。僕より7歳下で、日本山岳会会員だ。ペンションの建物は古く、率直に言って快適性に欠けるが、山の話を聞きたければ、是非一度泊まるといい。世には毒にも薬にもならないようなペンションが多いが、ここは客側の態度次第で毒にも薬にもなる。様々なサーヴィスを、即ち、山の話を如何に主人から引き出すかが鍵だ。そもそも旅というものは、自分から未知の世界に飛び込むことから始まる。受身の旅しかしない人は、どこへ行っても、何も得られないだろう。と言い切ると、語弊が生じるが、自ら何かをつかむには、それなりの積極性が必要だというのがここの主意だ。虎穴に入らずんば虎児を得ず。そんな格言もあったじゃないか。
僕は、「ロッジ山旅」の入口に掲げられていた一枚の写真を見付けた。長谷川恒男氏が自ら撮影したところの、冬季単独登攀に成功したグランドジョラスの写真だ。僕は先年、白神岳に登った時、長谷川恒男氏の登頂記念の杭を見ていた。僕は主人に語りかけずにはいられなかった。「すごいですね」長沢氏は、「私には縁のない世界です。一か八かですからね」と言った。僕より若い年齢で長谷川恒男氏は山で遭難死している。無論、彼も山で死にたいわけではなかっただろう。しかし、山男は山で死ぬ確率が高い。山で死ねたら本望、と山男なら自ら言い聞かせたことがあるのではないか。生還する。誰もがそれを望む。それを前提として認めた上で、万一遭難死しても、後悔しないという覚悟をして、山男は出発する。仮に運よく畳の上で天寿を全うして死ねるとしても、どうせ僕ら凡俗は、深い宗教的諦念があるわけではない。どの道悶々と悔恨と自責の念の中で死ぬのだ。それならば、せめて一か八かの激烈な賭けの中で死にたいものだ。あるいは、生きたいものだ。生きもせず、死にもせず、ただその日暮らしを漫然と重ねるだけの人生ならば、百年馬齢を重ねても、一度として何も心の中に燃え立つものはないだろう。虎は死して皮を残す。才覚のある者は財産を残す。僕ら凡俗は灰以外何も残せない。
月に吠えても、唸っても、
灰、それまでよ。
凡、凡、ボンクラ、ボンクラガッサッサ。(山際俗歌集より)
平成21年7月18日朝、僕は旧大泉村から権現岳を目指した。前三頭までは順調だった。確かに空は曇っていたが、小雨も降ったり止んだりしていていた程度で、問題にならなかった。両腕に伸縮自在の杖を持って、深呼吸しながら登った。亜高山樹林帯が続く。カラマツやクヌギなどの林の中を歩くことの快さをどう表現すればいいだろう。無意識下に、「或る懐かしい時間への回帰」があるのかもしれない。僕らが少年の頃、春照小学校の本校へは長い雑木林の中の細道を歩いて通った。いつも饅頭屋の坊と一緒だった。その坊は歩きながら連続的に屁をこく得意技を持っていた。30発程続けたのをいまだに覚えている。鎮守の森もあった。あの細道は多分今もどこかに続いていて、少なくとも僕の心はその道を絶え間なく歩き続けているのだろう。登山道脇の木の枝に、「がんばれ」と書かれた小さな木片がぶら下がっていた。1秒に1歩くらいの速度で長い急斜面を何とか登り切って、岩の多い前三頭に到着した時、急に左手の谷間から強風が吹いてきた。そこは樹林帯が途切れていて、周囲には風を防いでくれる樹木がなかった。吹き上げて来る激しい風は、透明の風ではない。霧か雲か、ともかく灰色に近い白の微粒子の巨大な塊が、僕の体を吹き飛ばすように吹いてくるのだ。まっすぐ立っていられない。岩陰で蹲るしかない。僕は決断した。こりゃ、我慢して頂上まで登ったって、展望がきかないのだから、意味がない。帰ろう、と。達成感を得られないまま、ただ重い徒労感にのみ包まれながら、僕は後退した。無念だった。しかし、間違いなく鍛錬にはなった。そう位置付けることにした。敢えてそう思って、自らを慰めながら下山した。小さな野望は無情の霧の中に散った。稜線上であろうとなかろうと、僕らには敢えて受け入れざるを得ないものが多々ある。
翌7月19日、大泉駅から吐竜の滝周辺の八ヶ岳南麓を歩いた。涼しさを味わいながらゆっくりと滝見物をした後、県営牧場、中止の滝、大泉駅の順路でトレッキングを続けた。途中、山道の傍の灌木の枝に赤ん坊の頭大の灰色の、紙風船状のものがぶら下がっていた。何だろう。僕は携帯用三脚イスで少し触れた。と、小さな出入り口から蜂が数匹飛び出して来た。魂消た。知識がないということは怖いことだ。吐竜の滝から外れた山道では、前後左右、誰もいなかった。ひたすら登り下りを繰り返すだけだった。この先はどうなっているのか。予備知識なしで歩くことの不安と面白さ。その割合は6対4くらいか。不安の方が大きい。しかし、人生は、いつだってそんなものだろう。何せ誰だって初めての、一回きりの旅をしているのだ。二回目の人生を生き直しているのではない。中止の滝で、白いハンチングを被った青年と擦れ違った。僕は大泉駅への道を尋ねて、確認した。少し安心できた。途中、山道が、しかし、二手に分かれていた。どちらの方角を見ても、立木に赤いテープが巻きつけられていた。束の間の安心だった。困った。青年の「下って行くと、大泉駅に行けます」と言う説明を反芻した。1本は登り道で、もう一本はそれに対して直角に分岐し、下っていた。道幅もほぼ同じ。下る道なら、左に折れる方の道だ。しかし、まっすぐ登って行って大泉駅に出られないのなら、その分岐点に、左折の矢印と大泉駅と書いた道案内があってしかるべきだ。その道案内がないということは、多分、どちらの道を選択しても大泉駅に到着するのだろう。そう考えた。もし下って行って、間違っていて、また登ることになったら、心身両面の負担がきつくなりそうなので、僕は、まっすぐ登ることにした。しばらくジグザグ道を登って行くと、意外にも白っぽい屋根の一部が木の間から見えた。ややや。どこへ出たのだろう。少し行くと、今度は車が数台駐車しているのが見えた。一体どこへ出たのか。その車の間を擦り抜けると、あの有名な「八ヶ岳倶楽部」という柳生博の店の横に出た。拍子抜けがした。何だ、こんな所に出たのか。確かに、ここから道を下って行くと、大泉駅に出られる。僕は緊張感を解き放ちながら、幾度も前に訪れたことのある店の中に入って行った。と、柳生博本人がレジの横にいて、自分の著書にサインをして、買った客に手渡していた。僕は、その様子を携帯カメラで撮影した。茶色の靴にジーンズ、シャツ、こざっぱりした外観だった。さすが俳優だ。年齢を感じさせない。柳生さんは芝居よりも四倍商売の方がうまいのではないか。どの商品の単価をみても、僕は割高感を覚えた。人はやはり「名」を買い、「名」に酔い痴れるという快感を欲しているのだろうか。
「八ヶ岳倶楽部」から大泉駅方面へ下って行く途中、「菱形と楕円との混在」に近い模様を偶然発見した。誰もいない小屋の前の椅子がふと目に留まった。近づき、小屋の中を覗くと、中にも椅子とテーブルとが置いてあった。僕はそれらの模様が自分の探しているものに近いと感じた。誰が何のためにこの小屋を建て、このテーブルとイスとを置いたのか。不思議だ。また、それらに偶然出会えたということが、更に不思議だった。
19日の午後は、清里の「マチス」というデザート屋に行き、甘いデザートとケーキを食べた。なぜか蚊や蠅は一度も見なかった。その夜、旧大泉村に戻ると、空には雲一つなく、星座が白く輝いていた。ネオンも街灯もない。夜、9時頃、「山旅」の近くのカラマツ林の中で、僕は空を見上げた。交差する黒い枝々で狭くなった星空は、白く輝く宝石を無造作に鏤めたようだった。僕は首を反らして、暫く自分の名も告げずにただ見上げていた。美しい星空の下で、僕はただひっそりと息をしているだけの、小さな無名の存在になってしまった。こういう在り方もたまには味わってみるべきか。仮の姿でしかないという無力感と孤独感の中で、僕は果敢無い夢を吐き、果敢無い夢を吸った。
20日、午前5時過ぎに起床。天気が良かったので、周囲の山並みを眺めるために出掛けた。八ヶ岳連峰も富士山もよく見えた。18日権現岳を目指して登った時はほとんど展望がきかなかったので、再度天の河原まで登り、ゆっくり甲斐の山々を見渡すことにした。見飽きることがなかった。朝食の時刻が近付いてきた。7時に「山旅」の食堂に戻った。勘定を済ませた後、少々、主人の書いたガイドブック「山梨県の山」を褒めた。玄関先で、主人と奥さんと娘さんとに見送られた時だった。
「ご主人は名文家ですね。『白皚皚として音もなし。』、あの部分は一度読んだら忘れられないですね」
主人は謙遜して何か言って笑ったが、よく聞き取れなかった。
その後、「八ヶ岳いずみ荘」のコートで、9時から13時までテニスをした。僕以外の参加者は、東京からの「おーい中村君」と小津監督の二人、そして南アルプス市からの田村姫。中村君は、コートに到着した時に、既に上半身汗びっしょりだった。前の晩、小津監督と一緒にペンションに泊まり、そこで飲み過ぎたようだ。田村姫は道に迷い、1時間程度遅れてやって来た。監督は元気溌剌で、口も足もよく動く人だった。特にグランドストロークが良かった。「おーい中村君」は冴えないショットが多かったが、なぜかセットポイントになると、その度に完璧なショットを決めた。まさに、最後に笑う者だった。田村姫はテニスを始めて3か月程度しか経っていなかった。一緒に「霧亭」でランチを食べた時に、彼女は「私はせっかちで、負けず嫌いです」と言った。僕は週末プレーヤーの場合、テニスができるようになるには10年かかるよ、と言った。彼女は10年も待っていられないと言った。10年後、彼女がどうなっているか、僕は知りたいと思う。テニスを続けていれば、それなりに上達をしているだろう。続けていないとしたら、テニスの腕前は今と同じ程度だろう。誰かが言った、「テニスは人間的な営みだ」と。どういう意味なのか僕には分からない。こつこつと真面目に取り組んでいれば、いつかは報いがあるということか。僕はその台詞を彼女に対しては受け売りしなかった。
ペンション「山旅」の長沢氏は僕の要望に応えて、自著にサインをしてくれた。そこには「美しい甲斐の山々」と書かれてあった。僕はいつしか「八ヶ岳を自分の庭と呼べるほど登ってみよう」と思うようになった。しかし、その前に、なぜか、心の隅で決めてしまった、当面の目標としては北岳征服だ、と。目を閉じると、僕の心の目に微かに見えるのは、雲上に気高く聳える北岳だ。
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