岐阜多治見テニス練習会 Ⅱ

権現岳から赤岳へ その一

権現岳から赤岳へ  その一
                    山際 うりう

 日常から離れた一つの激烈な冒険だった。全行程に亘ってとは言わないが、帰宅した今、振り返ってみると、自分の心に激烈な印象を刻み残した山行だったと言わざるを得ない。片道7時間の山岳地帯の踏破を、いわゆる山男ではない普通の男が2日連続で成し遂げたのだ。不断、心に密かに抱く山への憧れだけが、その日、心身共にひ弱な僕を一気に駆り立てたと言っておこう。それほどその日の天気は良く、甲斐の山々は美しく、周囲の草木の色や野花の香りも鮮やかに誇らかに気品高く、それぞれ喜びの歌を歌っていた。

 或る意味で山中は楽園だったが、無論、楽しい時間ばかりが流れていたのではない。危険なedgeの上を、心身のバランスを取りながら辛うじて渡り切った場面もあった。その時味わった恐怖感は、今も骨に染み込んでいる。山男ならば鼻歌交じりでひょいひょいと渡る場所だったかもしれない。しかし、僕にとっては難所だった。そこは権現岳から赤岳へ向かう途中だった。垂直に近い岩壁に長い鉄製の梯子が掛かっていた。重い荷物を背負って降りなければならない。幸いに風はなかったが、もし強風が吹いていたら、僕は梯子から崖下に墜落する予感に怯えて尻込みしていたかもしれない。慎重に岩の上から鉄製の梯子の段に足を移した。緊張の一瞬ではなく、連続だ。僕は崖上も見ずに、崖下も見ずに、ただ梯子の細い鉄棒を確実に握ることだけに集中した。直径20ミリ程度の細い横棒だ。もう少し太い棒ならば、がっしりと握りやすい。細すぎて手が滑りそうだ。なかなか下に着かない。息苦しくなる。梯子は長い。命は短い。どうだろう、測ったわけではないが、その梯子は地上から三階建て家屋の棟瓦までの距離より長かったような気がする。(もう二度とあのルートを登攀することはないと思うが、万が一、行くことになったら、梯子の長さを測るほどの余裕と度胸を持って行きたいものだ。)僕は梯子の途中で自分に言い聞かせた。確実に。冷静に。梯子の鉄枠に縁取られて、切り立った岩の隙間にイワギキョウの青い花が咲いているのに気付いた。(イワギキョウは秋のリンドウと似た青紫色の鐘状の花。リンドウと違い、花は上向きに開かない。)この気高くも可憐な青の鐘の姿。僕は励まされ、大きく息を吐いた。心の震えは、しかし、そう簡単には止まらなかった。一段ずつ「三点確保、三点確保」と自分に言い聞かせて、ゆっくりと降りた。情けない話だが、手足が極度の緊張感のためにわななきそうだった。2009年8月17日、月曜日、12時頃だった。無事着地した時の安堵感は大きかった。

 今回の権現岳挑戦は2回目だった。1回目は今年の7月18日。この時は天女山から前三頭まで登り、そこから引き返して来た。立っていられないほどの強風のためだった。小雨も降っていた。今から思えば、引き返して正解だった。あのまま登っていたら、視界ゼロ状態であの危険な梯子降りをしなければならなかった。濃い雲霧のため何も見えなかったから逆に恐怖感は湧かなかったかもしれないが、それだけに必要な集中力を欠いて、突風に煽られて墜落していたかもしれない。どちらかと言えば、今まで僕は下調べを十分せずに登る軽率登山派だったが、愚かな自信過剰が命取りになるということが、今回少しは分かったような気がする。

 頭の中では、「捨身」の領域に辿り着くのだ、そして、心の自由を会得するのだ、などと思いながら歩く。修験者気分だ。本物の仏教とは関係なく、自分だけの、言わば「山際教」の教理を体得したいという甘い幻想があるのだ。自分の頭の中では、そうだ。しかし、心や手足は正直者だ。梯子の上で、僕の心や手足が感じたのは、まさに身を捨てることへの恐怖感だった。谷底から吹き上げてくる心地よい風に当たりながら、ふと空を見上げると、鳶が一羽、悠々と大空を舞っていた。この鳶はこんなふうに毎日赤岳を見ながら飛んでいるのだ。何という自由さ。澄んだ大気の中を鳶が舞いながら描く様々な弧の線を見ていると、すべてが偶然任せのようでいて、すべてが理に適ったもののように見えた。

 ところで、景色はどうだったの?と、君は無邪気に尋ねるだろう。感動は深ければ深いほど言葉にならない。敢えて表現しようとすれば、至って平凡になる。僕はただ素晴らしかったとしか答えられない。8月17日早朝は、ずっと富士山を背負いながら歩いた。左に首を回せば、甲斐駒ケ岳、北岳、鳳凰三山等、南アルプスが雲上に高峰を連ねて、日本の美しい歌を堂々と合唱していた。その南アルプスを背に権現岳の山頂に立てば、右後方に富士山、左前方に阿弥陀岳、赤岳が見える。青く澄み切った空には一点の雲もなし。登山道を彩るノアザミ、イブキジャコウソウ、ホタルブクロ、マツムシソウ。これがこの世の極楽でなくて、何だろうか。名古屋にも多治見にも青空はある。しかし、あの澄み切った、湧き出したばかりのような純粋な青の色は、どんな街の上にもない。心の奥深くに泉のような透明感をもって沁み入る青だった。

 僕は天女山の駐車場から登った。朝7時25分。権現岳征服が目的だった。日帰りする気持ちが七分で、残りの三分が「気分次第で山小屋泊まり」、場合によっては主峰赤岳へ行ってもよいと思っていた。7月に前三頭の地点までは経験済みだった。その時の疲労度を思い出して、今回は意識的にゆっくりと登ることを心掛けた。天気の心配はなかった。権現岳まで片道4時間。急いでも急がなくても大差あるまい。いや、急がすにゆっくりと登る方が早く着くのだ。昼飯のお握りを頂上で食べられたら、それで満足だ。その程度の考えだった。歩幅を狭くして、ゆっくりと登れば疲れない。足を上げて上がるのではなく、曲げた膝を上の段でただ伸ばす。このイメージが大事だ。そうすれば、楽に登れるはずだ。僕はラジオを聴きながら、また、富士山を幾度も振り返りながら、順調に登って行った。

 前三頭まで登ると、眼下にはスカートを広げたような八ヶ岳南麓の優しい広がり、その左奥には一際抜きん出た富士山の左右対称に近い優雅な裾野の線、そして、眼前には南アルプスが峰を連ねて雲上に織り成す雄大な屏風が展望できた。幸運だった。この幸運を待っていた。この世では、幸運も続かなければ、不運も続かない。不運も続かなければ、幸運も続かない。どちらを先に言い、どちらを後に言っても、同じだ。ただ言えることは、不運は待っていなくても僕らを襲ってくるが、幸運は待っていなくてはつかめないということだ。僕はいつも八ヶ岳を待っていた。

 権現岳の頂上に辿り着いた時の喜びは、大きかった。「権現岳」と書かれた板を記念に撮影した。しかし、その頂上は狭く、周囲3メートルほどの巨大な岩石が絶壁を背景にして突っ立っているだけだ。一歩踏み間違えば、真っ逆さまに深い谷底に墜落する。僕はその岩石にしがみつきながら、絶壁の下を眺めた。達成感と恐怖感とが混ざり合っていた。僕はその岩に携帯を置いて、富士山の写真を撮ると、すぐ頂点から降りて、心を安定させた。頂上に立っていることだけで怖かった。心がわなないた。白状すれば、赤岳からの帰りは、この権現岳の頂点には立たなかった。立つ勇気がなかった。何が捨身だ。心の自由だ。まだまだ修行が足りない。権現岳の頂に立つ巨岩に神性を感じるのは僕だけだろうか。

 僕は権現岳征服の後、赤岳へ向かった。下調べをしていなかったので、権現岳から赤岳まで何時間かかるか分からなかった。主峰赤岳は目の前に聳えているのだ。すぐ隣の山だ。僕はそのまま引き返す気分ではなかった。結果的には、そこから3時間かかった。赤岳登頂は午後2時22分。特に、頂上付近のガレ場、岩場での四つん這いになっての登攀は困難だった。しかし、恐怖感はなかった。体調さえ良ければ、登り甲斐のある魅力的な場所だと言ってもよい。権現岳頂上から赤岳頂上までの所要時間が3時間だと予め分かっていたら、僕は多分、行かなかっただろう。多分、その日は青年小屋に泊まって、翌日は隣の編笠山でも目指していたことだろう。

 赤岳頂上小屋に初めて泊まった。小屋の従業員は僕に、「相部屋でいいですか」という尋ね方をして、言外に個室利用を勧めた。その青年は、痩せて浅黒く、髪を女のように後ろで束ねていた。どこかで見たような顔だった。安室奈美恵の元夫に少し似ていた。僕は彼に追加料金6000円を支払った。「ありがとうございます」という言葉には、少し力強さが込められていた。彼は僕を2階の個室に案内した。ドアを開け、「ここは4人部屋ですけど、全部一人で自由に使ってください」と言った。見ると、確かに部屋は上下2段に分かれていて、各段に2名ずつ寝られるようになっていた。寝具類は汚れていた。掛け布団は、しかし、羽毛で、僕の家の布団よりは上等だった。ぽかぽかと暖か過ぎて夜中に目が覚めるほどだった。あまり眠れなかったのは、羽毛布団だけのせいではなかった。疲れ過ぎて、身体全体と神経の興奮状態が一晩中収まらなかった。窓際だったので、僕は寝ながら星を見ていた。
 
 消灯時刻の午後8時前まで、僕らは外の六畳ほどの板敷きの上で星空を見上げていた。隣では、若い娘たちが「天の川が見える」と感激の声を上げていた。仲間の青年が「あ、流れ星だ」と言うと、一人の娘が「あ、ほんとだ。幸せになれますように」と即座に願い事を言った。周りの者に聞こえるように願い事を言う者に出会ったのは、初めてだった。板敷きの上にいた者も岩の上にいた者も、寒い寒いと言いながら、一人ずつ小屋の中へ入って行った。僕だけが最後に板敷の上に残った。しばらく僕は一人だけで夜空を見上げていたが、恐怖感は少しも覚えなかった。近くに人がいることがこんなに心理的な支えになるのか。まったく思いがけない角度から、僕は自分の心の弱さを思い知らされた。

 これを書いている今、僕は自分が2006年8月に書いた「赤岳紀行」を読み返した。
 
「・・・小屋の中を見回すと、『個室あります』と書いてあった。尋ねると、小さい方の個室料金は、『一泊二食付きで7,800円』という標準料金に8,500円の追加料金が必要とのことだった。8月7日月曜の天気予報さえ良かったら、山頂で泊まりたい気分だった。俗界から離れ、大自然と一体化して心が清新になるか、退屈して酒ばかり飲むことになるか、一人でたっぷりの時間を過ごすという贅沢な冒険を試みてみたかった。原村のような人間臭の満ちた所ででも星空に圧倒されて恐怖感を覚えた私だ。こんな尖った山の先端に立ったまま、言わば夜空に囲まれて夜空の奥底を見上げたら、一体どうなるだろう。底なし感、煌めき、闇、不安、神秘感、暗い想像、そういったものに対して眩暈を起こして卒倒してしまうだろうか。・・・」

 想像したことと実際とはこれほど違うものなのか。たった一人で板敷きの上で夜空を見上げても、「底なし感」にも「不安」にも「暗い想像」にも陥らずに、僕は平静でいられた。少なくとも、その時はそうだった。

 翌朝、4時半頃、物音で目が覚めた。日の出を待つ人々の音だ。僕も重ね着をして、外に出る準備をした。しかし、こんな話よりも面白い話を書かねばならない。

続く

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