すばらしい物というのは、誰かがそれを大切に思い大事にていねいに扱ったことにより、すばらしい光を放ちはじめた物です。
20年前、縁あって一緒に暮らした女性といた時に、彼女が持っていた小さなノートがとってもすてきに見えた事がありました。とりわけ特別なものではなかったのですが、なぜか彼女の手の中にあるととてもよい物に見えたんです。不思議で仕方がありませんでした。なんでもない物のはずなのに、どうしてだろうと思ってました。その内彼女はものを大切に大事に扱う人だと気づいたんです。その大切にていねいに扱うという事が、「よい物」エナジーを出しているというのに気づき、とても驚きました。
私の家では「大した事ないもの」を大切にする姿というものはなかったと思うんです。家族が物を雑に扱うという事もなかったと思います。ただ私自身が「泣かないのはいい子と」と小1の時から信じることによって、泣きたい気持ちをこらえて「泣かないいい子」になり、そのしわ寄せで泣きたい気持ちを全部「怒り」に変えていました。それでその怒りを解消するのに物に当たっていたんだと思うんです。それで大した事ない物に対して、「大切にていねいに」がますます根付かなかったのかも知れません。
大正生まれの父は物事には「上等と下等」があるという考えを持っていました。あの時代みんながそう言う考えを持っていたと思いますが、「上等」でないものには手厚くする必要はない、という考えが私の心にもすり込まれていたんだと思います。それでなんでもないノートを大切にするという考えは私の頭にありませんでした。ですからなんで彼女のノートはあんなにキラキラとしているんだろうと、不思議に思っていたんです。それが彼女の「大事にていねいに」の気持ちがキラキラにしていたなんて本当に驚きでした。
そうなんです。同じ物でも持つ人がどういう気持ちでそれを扱うかで、物は変わります。それは人も同じです。自分のことを「大事にていねいに」扱ってあげる事ができれば、光り始めます。自分を光らせる事はそれほどシンプルな事です。それが自分を愛することですね。
20年前、縁あって一緒に暮らした女性といた時に、彼女が持っていた小さなノートがとってもすてきに見えた事がありました。とりわけ特別なものではなかったのですが、なぜか彼女の手の中にあるととてもよい物に見えたんです。不思議で仕方がありませんでした。なんでもない物のはずなのに、どうしてだろうと思ってました。その内彼女はものを大切に大事に扱う人だと気づいたんです。その大切にていねいに扱うという事が、「よい物」エナジーを出しているというのに気づき、とても驚きました。
私の家では「大した事ないもの」を大切にする姿というものはなかったと思うんです。家族が物を雑に扱うという事もなかったと思います。ただ私自身が「泣かないのはいい子と」と小1の時から信じることによって、泣きたい気持ちをこらえて「泣かないいい子」になり、そのしわ寄せで泣きたい気持ちを全部「怒り」に変えていました。それでその怒りを解消するのに物に当たっていたんだと思うんです。それで大した事ない物に対して、「大切にていねいに」がますます根付かなかったのかも知れません。
大正生まれの父は物事には「上等と下等」があるという考えを持っていました。あの時代みんながそう言う考えを持っていたと思いますが、「上等」でないものには手厚くする必要はない、という考えが私の心にもすり込まれていたんだと思います。それでなんでもないノートを大切にするという考えは私の頭にありませんでした。ですからなんで彼女のノートはあんなにキラキラとしているんだろうと、不思議に思っていたんです。それが彼女の「大事にていねいに」の気持ちがキラキラにしていたなんて本当に驚きでした。
そうなんです。同じ物でも持つ人がどういう気持ちでそれを扱うかで、物は変わります。それは人も同じです。自分のことを「大事にていねいに」扱ってあげる事ができれば、光り始めます。自分を光らせる事はそれほどシンプルな事です。それが自分を愛することですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます