プラムフィールズ27番地。

本・映画・美術・仙台89ers・フィギュアスケートについての四方山話。

◇ 木々康子「林忠正 浮世絵を越えて日本美術のすべてを」

2025年02月28日 | ◇読んだ本の感想。
この著者の作品は2冊目。1冊目もなかなか面白かった。
今回のこれはさらにちゃんとした評伝。

実はこの人は、旦那さんのお祖父さんが林忠正らしいのね。
なので、家族内で言い伝えられた話もあるし、残した絵画も(わずかながら)あるらしい。
とはいえ、「我が家の話」ではなくしっかり調べられている。
大学に属する学者だった経歴はないようだが、冷静な書きぶりで最初は学者か?と思っていた。

この本は林忠正の出自(加賀藩支藩の高岡……いや、支藩じゃないのか?
まあ加賀藩に追従する高岡という地域で、蘭方外科医の息子として生まれた)から詳述する。
そこから書いているので、林忠正が自分の利益も大事にしたけれども、
広い視野を持って行動した人物であることが納得できるようになっている。
1冊目を読んだ時は、もう少し身内びいきが入ってもいいくらいだなあと思ったが、
2冊目は多少身内感が増していた。

この人が林忠正の身内として一番いいたいことは、多分以下のこと。
「浮世絵を山のように売りさばいて貴重な美術品を流出させた売国奴」という声に対して、
彼は浮世絵にはそこまでの価値を感じていなかったこと、
浮世絵が怒涛のように海外流出した際には、まだあまり浮世絵には手を染めてなかったこと、
願っていたのは(商売と並行してではあっても)
日本美術の最良の部分を世界に紹介したいということ。

商売だけを考えて節操なく売りさばいただけではないし、
良い工芸品も多く扱ったが、良い物は人を見て売っていたそうだ。
そして日本美術の最上のものは手元に残し、日本へ持って帰って来たもの、
あるいはヨーロッパで非常に深く付き合った人に譲ったものが多いと。

こう書くと身内びいきと感じるかもしれないが、実際に読むと抑えた筆致で書いてあるので
その部分は気にならなかったです。
……だが、この冷静な書きぶりを全面的に信頼したくなるので、その辺は自重せねばと思う。

ここのところ、本を読んでも「この本に書いてあることは妥当なのか?」と
考えすぎてしまって……
昔からそう思いながら読書をしてきたつもりだけれど、特に近年、
悪意をもって嘘を書く人もいるから、ついつい疑心暗鬼になってしまう。
こういう読書は疲れますよ。もっと気軽に読めてた時代に戻りたい。


それはともかく、林忠正について3、4冊読んだらいいだろうと思っていたが、
興味深い人なので、図書館にある本はツブしてみる。といっても6、7冊だけど。
木々康子以外の書き手がどう書いているのかも見たいしね。

林忠正の同時代の日本美術愛好家についても広く書いているので面白い。
ゴンクール兄弟とか、ピングとか、そこら辺の人の話も読んでみたくなる。
……しかし「ゴンクール」を図書館のサイトで検索すると、
「コンクール」も拾われてしまって、検索結果が何百冊にもなってしまうんですが、
これはどうしたらいいですか。



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◇ テオフィル・ゴーチエ「魔眼」

2025年02月22日 | ◇読んだ本の感想。
ゴーティエというかゴーチエというかが悩みどころ。

折にふれて目にする名前ながら、全然作品を読んだことがなかったので
今回重い腰をあげて読んでみた。
どんなに小難しい話を読まされるんだろうと戦々恐々としていたが、
喜んでください!とても平易なお話でした。

いや、こんなに平易な語り口でいいの?と思ったくらい。
文庫本1冊に「魔眼」が多分中編で半分くらい、「金の鎖またはもやいの恋人」と
「クレオパトラの一夜」が短編。

「魔眼」はとても素直な小説。舞台設定は19世紀くらいですか。
本を返してしまったので、記憶はとてもあやふや。

スペインに来ているフランス人の男とイギリス人の父と娘。
男と娘は婚約中。
が、迷信深い土地柄で、男がなぜか「魔眼」認定されてしまう。
魔眼とは、本人の意思に関係なく、見られた人を不幸にしてしまう能力。

男は自分でもそうと信じ、病弱な恋人を死に追いやってしまうのではないかと恐れ、
最終的に恋敵のスペイン貴族を決闘で殺した上に、自分で自分の目を抉り出し、
しかし恋人は死んでしまうという救いのない物語。

もっと漢語の多い、きらびやかな、読むのに時間がかかる文章だろうと思っていたが、
語りの系譜と感じたくらい平仮名が多めの文体。
これは本人の文章からしてそうなのかね?翻訳のテガラなのかね?
とはいえ、凝った文章を平易に訳すのは違うだろうしなあ……。不実な美人になってしまう。

話としても正直、安易とも感じたほどおとぎ話的だった。
小説として、なぜ魔眼認定されたのかとか、男がなんで自分を魔眼だと信じ込んだのか、
納得できないところも少々あった。
まあ小難しい話を読むよりは楽だったのでいいんですけども。

2番目の「金の鎖~」は古代ギリシアの遊女の話。これは元ネタがあるんだろうね。
高級遊女がいろいろあって恋人をもう一人の遊女と共有し、
最終的には仲良く3人で暮らすという、これもまことにファンタジー。

3番目はクレオパトラが気まぐれに美少年を愛する話。……だったか?
うん。まあ何しろ短編だから印象に残らない。記憶力の問題だが。

結論として、読みやすかったのはいいんだけど、正直言って毒にも薬にもならぬというか。
これは本人が意識してお伽話として書いたのかなあ。
そうであればまた見方が変わるが、こういうのばっかり書いているのだったら、
なんか今までのゴーチエの高名が……。別に悪い作品ではないけれども、
良くも悪くも普通なのよ。

評論系で小難しいことを書いている(のではないかとわたしは決めつけている)のであれば、
もう少し高踏的な作品でもいいんだけどね。
もう2、3冊読んでみる。

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◇ 高橋秀実「趣味は何ですか?」

2025年02月16日 | ◇読んだ本の感想。
いつもの高橋秀実節。
「趣味は何ですか?」と訊かれた時に答えに詰まったことから始まって、
高橋秀実は趣味を探求する旅に出る。(←嘘)
この人は対象に肉薄して取材していくスタイルだから、数々の趣味に自ら挑戦する。
そんなに変なものはなかった。ぱっと見には。

蕎麦打ち。ヨガ。登山。ガーデニング。切手。消印。
……本を返してしまったので忘れたが、20種類くらいあったかな。

高橋秀実は内省的で、基本的には同化しないタイプ。
蕎麦打ちなら蕎麦打ちをやってみるんだけど、同化はせず、結局距離を取る。
まあこういったら本人は不満だろうけど、どちらかというと揶揄の視線で見てるよね。

高橋秀実は、むしろその趣味をやらない理由を見つけてしまう。
気弱にツッコむ。まあこういう結論になったらその趣味をやる気にはなりませんな。
これはこの人のいつもの芸風なので、この部分を楽しんでいただきたい。
現役でその趣味を楽しんでいる人は若干バカにされたように感じるかもしれないが。

ある程度面白いので、何か趣味でも持たないと……と思っている人は
ぜひ読んでみてください。……とは大嘘。
この本を読んでも多分趣味は見つかりませんから。




※※※※※※※※※



――が、とりあえずこの本を読んで衝撃だった内容は他にある。

「武士道」は山鹿素行が無役の武士の暇をつぶすために作った。

漫然と読んでいたので、えーっ!と驚いた。
……が、前に戻って読みなおすことはしなかったので、事実かどうかは不明。
前述の通り、本をすでに返してしまったので内容を改めて確認は出来ない。

まあ噂程度に考えていていい話なので、あまり信じてしまうのもね。
妥当な言い方だと、山鹿素行が武士道についての見解をまた一つ付け加えた、
くらいに考えておいた方がいいでしょう。

武士道はね。かっこ良くて嫌いじゃないんだけどね。
近年あまりにも理想化されすぎてる気がするのよね。
あんまり理想化されてしまうと、結局は現実との乖離が始まって、
それはフィクションになってしまう。
が、武士は実際にいた存在だから、それがフィクションと意識されることなく
人々に根を下ろしてしまう。

坂本龍馬なんかも同じでしょう。
現行のイメージは実際よりだいぶ快男児寄りになっていると思う。
だからといって実害があるわけではないかもしれないが、
実害がないからといって、全てについて奔放なイメージを語り始めると
果てしなく実体と離れていくから。
……歴史には出来るだけスタンダードを求めていきたい。

とはいえ、「聖徳太子はいなかった」とか言われると。
わたしは聖徳太子が厩戸皇子でもかまわないし、大いに理想化されているだろうとは思うが、
「いなかった」とまで言われるとちょっと困っちゃうなあ。

まあ武士道や聖徳太子の異説について、それほど関連図書を読みたい気はしない。
理由は、……面倒だから。どれが史実か、とかそういう細かいところだけを
気にするようになると、歴史の面白みは薄れますよね。
なのでわたしは王道の学者が書いてくれた「最低限これだけはいえるといって良いだろう」
という大変慎重な部分の本を主に読んでいきたいと思います。

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◇ 川端康成「新文章読本」

2025年02月07日 | ◇読んだ本の感想。
ひっじょーに面白かった。
良い文章とは、を書いた本に対して「ひっじょーに」とか言ってたら、
川端康成は草葉の陰で鼻を鳴らすだろう。

伊藤整の解説も含めて文庫112ページの本。非常に薄い。
しかもその中で最小限読むべきところは第3章までです。
いや、もちろん112ページしかないから全部読んでいいんだけど、
とりわけ感銘を受けるのは第3章まで。

第4章以降は同時代作家の実際の作品(文章)を比較・検討・分析している。
それはそれで面白いけれども、わたし程度は例に挙げられた有名作家
(泉鏡花や佐藤春夫、菊池寛や里見弴など多数)を各1冊くらいしか読んでないし、
引用部分も相当多いから、それをじっくり読むのは骨が折れる。
そもそも川端康成自身も2、3冊しか読んでない。
この部分は5割くらいの集中力で読みました。

しかし1章から3章までは本当にいいですよ!



まず「おお!」と思ったのは、川端康成が芸術活動を「芸術創作」と「芸術受用」とし、
作者と読者の双方の心理活動としている点。
創作活動は創作側だけが偉くて、読んでいる方は単に読んでるだけだと思っていたよ。
ノーベル賞作家にして読者が目に入っているとは。(偏見だが)目から鱗。

そして双方を結ぶ一本の橋は表現であるという。
どんな(善き)意図があっても、新しい手法を試みたとしても、「表現」の選択を
吟味しない限り、その内容は伝わらない。……と勝手に言葉を変えて言ってるけど、
だいたいこんなことを言ってるはずです。間違っていたらお詫びの上訂正する。

表現とは文章である。そして文章は小説の命であり枷である。
それぞれの国にその国の文章があり、時代ごとにも各々の文章がある。
坪内逍遥、二葉亭四迷の例が出て来る。たしかにこの頃は日本口語文の黎明期で
彼ら二人は相当に苦労していたはずだ。わたしが読んだ時もそう感じた。
ヨチヨチ歩き出したばかりの現代口語、という感じだったもの。


……こんな感じで続けていくと永遠に終わらないので、
感銘を受けた部分を書き抜く。
切り取りは悪意がなくても恣意的になりがちなので、文責はわたしにあります。


   〇文章の第一条件は、この簡潔、平明ということであり、如何なる美文も、
   若し人の理解を妨げたならば、卑俗な拙文にも劣るかもしれない。

   〇「平家物語」や「太平記」はその当時にあっては確かに名文だったであろうが、
   文章もまた星霜と共に変る。

   〇単語の選択は、よき文章の第一歩で、ここに文章の生命もこもる。

   〇音楽的効果についてもそうで、「耳できいて解る文章」とは、私の年来の祈りである。

   〇世界各国共通語の文芸の夢もみる。

他に抜き書きが出来ないところで、芥川龍之介が「しゃべるように書く」よりむしろ
「書くようにしゃべりたい」と言っていた部分の引用とか、
漢文調が命脈を長く保ったのに、和文調の文章が早く廃れたといわれるのは本当かとか、
面白いところが数々ある。わたしが面白いと思ったものの他にも人によってはあるだろう。


そして何よりこれが、名文で書かれているというのが。
看板に偽りなしですねー。
「雪国」を読んだ時に思ったけれど、この人は本当に描写がきれい。
今回は描写ではなくて随筆ですが、明晰でちょっと湿度もあっていいですね。
文章家といえば川端康成というべきにやあらむ。中島敦もいいと思ったが。

文章の書き方について、川端康成は自分自身の問題として長年考え続けていたのだろう。
その結論を読者が一足飛びに教えてもらえるのは大変お得な気がする。

実はこれから大家の文章読本を続けて読もうと思っていて、まずは川端康成。
次が谷崎潤一郎。吉行淳之介。中村真一郎。三島由紀夫。井上ひさし。
丸谷才一は数年前に読んだ。「ちよつと気取って書け。」が印象的だった。

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◇ 西宮秀紀「伊勢神宮と斎宮」

2025年01月20日 | ◇読んだ本の感想。
面白くなかったです。初心者向けを期待していたのだが。

斎宮について基本的なことを知りたかったのよ。
なので、タイトル的にこれだろうと思った。新書だし。
基本的なことを説明してくれて、その上で伊勢神宮との関りをじっくり語ってくれるだろうと。
だがしかし。

まーとにかく話が細かかった!
これの本当のタイトルは、「伊勢神宮関係文書を読み解く」だね。
史料の説き起こしをメインにする内容で、枝葉はいろいろ書いてくれるんだけど、
せめてその前に伊勢神宮と斎宮それぞれについて概説を書いてくれ!

わたしの伊勢神宮についての知識は、いろいろ読んでてついでに触れられる知識&
テレビの旅番組、
斎宮については「古事記」と「源氏物語」「伊勢物語」の関連で語られる個所しか知らない。
わたしはそこからもう一歩踏み込んだ(しかし踏み込みすぎない)概説が欲しかったのだ。

しかし著者は、その辺のことはもうみんな知ってると思ってるのか、
基本的な説明はナシ。

そして史料を読み込んだ内容を丁寧に現代日本語化してくれる。
……だがその内容が細かすぎて!
多少細かい程度なら面白いけど、ほぼ全体が細かすぎて!

誰でも知っている内容をレベル1とすれば、わたしが求めていたのはレベル2程度の
解像度で、これはレベル4くらいの細かさ。

例えていえば、桜を一度も見たことがない人に花だけを延々と説明しているような状況。
(主観的に言えば、花というより花弁だけを説明しているような)
幹や枝ぶりや樹高とかも一緒に書いてくれないと、桜の全体像が伝わらないのよー。
花だけ(花弁だけ)だと、松の木に桜の花が咲いているような木を想像しないとも限らない。
それはやっぱり「桜の説明」としては片手落ちなのではないか。

3分の1ほど読んだ時点で、あれ……?これ最後までこの調子なのか?と疑問に思い、
半分ほどで、先の長さにがっかりし、最後の3分の1は内容そっちのけで
「いったいどうしてこれほど読みにくいのか」という原因を考えながら読んでいた。
読んでいたというより目を滑らせていた。

原因は前述の通り、基本的に史料の説き起こしであるというのが大きいと思うけど、
それに関連して、……解説もしてくれないのよね。

A1とA2とA3という史料から、Bと思われるといってくれれば
初心者はなるほどなるほどと思って読むが、A1とA2とA3を提示するだけで、
そこからのBは言ってくれないから、「……で?」という感想になる。
客観性を重視したのかもしれないが、新書ってそういうものじゃないでしょう。

あと、終盤で思ったけど、一文が長すぎる。
読点まで3行から5行がほとんど、となるとAとBとCとDを一文で書くようになって、
内容が散漫になる。
だから1ページに「さらに」と「また」が5回も出て来るようになるのだ!
そこで文章を分けろ!

……と思って何とか最後の「終章」まで読んだら、
その終章の文章は明晰で明確で、非常に読みやすいの!
本文と終章が同じ人が書いたとはとても思えない。
なぜ本文もこの明晰さで書いてくれないのか。


というわけで、斎宮についての知識はほとんど深まらなかったので
(読んでる間にちょこちょこ面白い知識はあったんだけど、何しろ細かいので
読み進めるうちに忘れてしまう)
別な本を読んでみます……。



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◇ 山尾悠子「飛ぶ孔雀」

2025年01月14日 | ◇読んだ本の感想。
山尾悠子はわたしにとって特別な作家。
まあ何しろ、最初は単なる「古田敦也のアンサーブログ」だった当ブログに、
読書感想ブログの要素を付け足させた張本人。
その後、そこに映画も加わり、イーグルス、89ers、エキシビ関連……
20年続けているブログになっているわけですから。


しかし本作は面白くなかった。
多分わたし、この本前に読んでるのよね。
でもブログに残してない。ということは読んでも感銘を受けなかったということだ。
武士の情けで触れなかったのかも。
今回もスルーしようと思ったが、X年後に3度目を読む羽目にならないように残しておく。

わたしにはわからないよ、この話。
山尾悠子の、夜見る夢のような取り留めなさは健在だが、それだけのように思える。
わたしが凄いと思うのは「山尾悠子作品集成」だった。
西洋的世界の方が、この人は魅力的じゃないかと思う。

あれを薔薇色と葡萄酒色のシンフォニーとするなら、
近過去日本が舞台の本作は日の名残りの侘しさしかなく。
西洋骨董品店のきらぎらしさに対する廃屋の侘しさ。魅力を感じない。

廃屋には廃屋の美しさが――時にはあったりするのかもしれないが、
それをいい感じの光の中で見るのならまだしも、物の形がようやく見えるか見えないかの
薄暗がりで見ると、単にテンションが下がるものにしかならない。ホラー嫌いだし。

というわけで、時間をかけて何とか読み終わりました。
内容もねー。入ってこないよねー。
タイトルが「飛ぶ孔雀」だから、もっとゴージャスなものを想像していた。
豪奢な話を読みたいですよ、山尾悠子ならば。

次は「迷宮遊覧飛行」。これこそ期待するよ。タイトル的に。
この人寡作だから、十年でせいぜい1、2作なんだよねー。





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◇ 根本聡一郎「ウィザードグラス」

2025年01月08日 | ◇読んだ本の感想。
根本聡一郎2冊目。

デビュー作の「プロパガンダ・ゲーム」もなかなか面白かったのよ。
でもどっちが好きかって言ったらこの作品の方が好きかな。
兄弟の関係性とか、心情的な部分が多かった。

この話はSNSをテーマにした陰謀サスペンス。
とはいえ、話としてはすっきり系で、これで物足りない向きもあるだろうが、
わたしは満足だった。SNSよく知らんが、順序良く言及してくれて理解出来た。

わかりやすいストーリーで、さっぱりしているところがいいと思う。
そして結末がすっきりしているところがありがたい。

SNSの固有名詞のもじりがわりと面白かった。
この辺であんまり著者本人が楽しんではいかん気はするが、わたしもけっこう楽しんだ。
本筋とは違うが。

書き方が観念的になってしまっている部分(ライブの場面)が少々気になったかな。
ここは描写で乗り切るべき。
あとバンドの人気者の女の子がそれほど活かせてなかったので、少し残念。

公安の方々は良かったね。これはネタバレだが、
わたしが読んだなかで公安が善玉というのはもしかして初かも。
エプロンをして料理をする佐倉さんはマンガにして欲しい。
マンガ向きだろうね、この小説は。

書かれているのは、SNSの情報をアメリカやGAFAが握ることについての恐怖。
というより、そういうシステム(ガジェット)が開発されていることの恐怖。
主人公はいろいろあって、他人の検索履歴がほぼ無条件で可視化できる眼鏡を手に入れる。
設定としてはありがちだが、けっこうエピソードの並べ方が良くてすんなり飲み込めた。

そして、前作と本作の繋がりが面白かったね。
細かい部分は忘れているが、かろうじて内容を覚えていたので楽しめた。
作品同士を結び付けるのは作者の神の愉悦だな。

前作もSNSを使った話。今回も同じく。この部分に興味がある作者なのだろう。
次は毛色の変わったものも読んでみたいな。


GAFAの支配に。屈してるよね、現代社会は。
そしてその状況が今さら覆るとは思えない。諦めをもってそう思う。

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◇ 佐藤昌介「渡辺崋山」

2024年12月28日 | ◇読んだ本の感想。
安定と信頼の吉川弘文館人物叢書。

長いシリーズなので出版は遠い昔。
とはいえ現在もシリーズは出続けており、いずれギネスにも乗るのではなかろうか。
がんばって欲しいものです。

この本自体は昭和61年刊。1986年。まあ40年前ですか。
40年の間に研究も進んだかもしれないけど。著者は大正7年生まれ。


渡辺崋山は「風雲児たち」で読んだ時に、妙に心に残ったのよ。
その哀れな一生が。

貧乏な藩の貧乏な武士の家に生まれ。家を支えるためにも若い頃に絵を志すも、
お家に仕えるためにその絵の道はあきらめなければならなかった。
それほど家格の高い家ではなかったようだが、父祖の頃から藩主のそば近く使える立場で、
のちに本人が家老の一人になり、藩の立て直しに尽力するようになる。

しかし結果的に立て直しは出来なかった。
それを本人の力量の問題にするのはあまりにも酷だろう。
絵も描き、西洋の知識も広く修め、頭も良く、人付き合いも誠実で、孝養を尽くし、
藩主に忠誠心――およそ人としては美点を十分以上に持っていても、
不幸は避け得なかった。

西洋知識の大家として知られるようになった。蘭学関係の知人も増えた。
だが幕府に睨まれ、蛮社の獄へ。
その後、渥美半島の領地への蟄居。自藩とはいえ江戸生まれの江戸育ちには馴染みの薄い地。
絵を描いて生計を立てていたが、蟄居の身には派手に売り出す術もなく。
それでも高名な崋山の絵は引き合いも多かったが、それにより幕府に目をつけられてしまう。
追い詰められた崋山は腹を切る。老母と妻と、子供たちを残して。


良い本だった。崋山のアウトラインは最初の30ページでほぼわかる。
その最初の30ページで生涯の哀れさがもうわかる。
その後はディテイル。それも面白かった。

しかし一番読みたいところである、
1.なぜ鳥居耀蔵は崋山をそんなに目の敵にしたのか。
2.あれほど孝養を言い立てていた崋山がなぜ老母を残して自殺したのか。
この辺は詳しくなかった。もう少し深く読みたかった。

まあこの部分は想像でしか到達出来ないので、学者としては掘り下げは難しいんだろうなあ。
一応、1については
儒学の林家出身(鳥居家へ養子)の鳥居耀蔵は、元々儒門だった崋山が蘭学に
鞍替えしたことに腹を立てていたからといってるし、
2については、罪人がさらにお咎めを受ければ藩主に迷惑がかかるから、と
理由を言っている。

崋山は、――せめて在所で生まれ育っていたら、ここまで悲惨な人生ではなかっただろうなあ。
江戸生まれ江戸育ちであることが良かれ悪しかれ大きな分かれ目だった。
江戸育ちであることで、当時の知識人・趣味人との交わりも広かっただろうし、
情報も比較的入手しやすかっただろう。そのことが当然視野の広さにはつながっただろう。

反面、在所の人々との日々の繋がりがなかったせいで、家老になっても藩政改革の壁は
高かっただろう。近くに住んで、昔から知ってる人が言い出すワケノワカラン新説の方が、
なんぼか受け入れやすかったに違いない。
遠い江戸にいる名のみ高い渡辺崋山――むしろ反感の下地でこそあれ、
受け入れる要素としてはマイナスだろうな。
現状に対する認識は、江戸と田原では違うだろうし。

もう少し忠誠心がなければ。脱藩して生き延びる道もあったのかもしれないが。
誠実だったことの裏目。
だが誠実さを失って生き延びる意味はなかったのかもしれないね。本人は。

面白かったので、崋山関係の本をもう2、3冊読んでみる。



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◇ ファーブル「ファーブル昆虫記 第1巻上」

2024年12月21日 | ◇読んだ本の感想。
ファーブルが書いたファーブル昆虫記。みなさんご存じですね。

が、わたしはそんなに馴染みはなくて。
子供の頃に家に1冊あったんだけど、本の虫だったわたしにしてはほとんど読まなかった。
1回か2回読んだきり。それも小学校高学年になってからだから、ほんとに敬遠してた。

それはひとえに、虫が嫌いだったからです。

虫が嫌いだとね。昆虫記のハードルは高いよね。
実際読んだ時も、内容はすごく面白かったんだけど、幼虫とかさなぎとか
なんか生々しくて読んでてコワかったのよ。

それから長い時が過ぎて、今回ようやく全巻読破へのトビラが開きました。
なぜ今さら昆虫記なのかといえば、それは訳者が奥本大三郎だからです。
彼のエッセイをここ数年ツブしていて、2016年まで発行のものは大概読み終わった。
その仕上げとして彼が完訳した「ファーブル昆虫記」。

虫好きのフランス語の先生が訳すというのは、作品の内容からしてぴったりですね!

読み始めは素人くさい翻訳に感じたが、そもそもファーブルの原文が素朴というのはありそう。
奥本大三郎本人のエッセイとも似通った、平易でいい意味でおじさんっぽい雰囲気。
読みやすくてさくさく。
大きめの単行本で350ページ。そのボリュームにちょっとぎょっとしたが、
実際に読んでみると予想の3分の2くらいの時間で読めた。

装丁が妙にロマンチックというか、可愛いのよね。
スカラベが紋章のようにど真ん中に小さく書かれている以外は、
イギリス・ヴィクトリアンな壁紙風。バラと小鳥。
なんでこのデザイン?と思ったが、実は虫がどーん!と描かれているよりははるかに
とっつきやすくて助かった。

ファーブルは。……アヴィニョンに行った時に、たしかファーブルが教えていた
中学校の跡地に建てられた公園でパンを食べたという程度の接点しかないが、
それこそ奥本大三郎の各著作から察するに、ほんとに地道に虫を見ていた人なんだなと。

もちろん本作も虫についてのじっくりした観察の賜物なのだが、
その観察が本当に何時間も何日も、何回も地道に積み重ねたものなんだと
実感できる文章が出て来て、そのたびに彼の姿を想像する。
やせ型の。麦わら帽子をかぶった。あまり手入れの行き届いてないぼさぼさの銀髪で、
道端にずっと座り込んで一心に地面を見つめていたりもしただろう。

その苦労については本人も作中に書いていて、警官には疑われるし、
通行人が観察中の虫の巣を長靴で(気づかずに)踏みつぶしていくこともあるし、
近所の女性たちには正気を失っていると思われて憐れみを受けたりする。
なかなか安心して観察が出来ない。
――その気持ちはドラクエウォーカーのわたしにはよくわかる。

知らないだけで、虫の世界もなんと精緻なことだろう。
餌を狩って、それを麻痺させて、ここしかないという天啓ともいうべき場所に
卵を産み付ける。
餌になった方のことを考えるとグロテスクだが、それは仕方がないこと。
世界は積み重ねられた本能によってわたしの思ってもみないほどにうまく回っているのだ。



――そしてこれを読み終わった直後に。
阿川佐和子の「きりきりかんかん」を最後まで読み上げてしまおうと思って続けて読んでたら、
「奥本大三郎さんの出版記念パーティに行ってきた」って話が出て来て。
本を読んでいると本のカミサマのお導きということは多々あるのだが、
それにしてもこれかい!とはほとほと思ったことよ。


「ファーブル昆虫記」は全10巻だそうですね。そして日本語版だと1巻上下巻に
分かれるそうです。なので20冊読まなければなりません。
まあ2年はかかるかなー。もっとかなー。のんびり読んでいきましょう。


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◇ 萩耿介「松林図屏風」

2024年12月15日 | ◇読んだ本の感想。
いやぁ、面白くなかったね!

わたしが面白くない判定をする小説は多く、
そのうちけっこうな割合がジャーナリスト出身の作家。

この本も半分くらいまで読んで、どうにも読みにくくて奥付をチェックしたら
作家の経歴が共同通信社勤務。
実際に記者だったのか不明だが、ジャーナリスト畑の人は、書くものに
味わいが足りない確率が高いのよ。

この作品もどうにも読みにくかったなあ。
文章の一文一文はまあ好きな部類だった。一文の長さを抑えてぱきぱきと
進めていく文体は嫌いではない。
心理描写もまあ……面白くなかったから好きになれなかったが、
面白かったら好感を持ったかもしれない。

しかしなんというか、根本的に話がつまらん。
人物が浅い。深くしようとしている意図は感じるが、書いてる本人はわかっても、
読んでるこっちには伝わらない。

本文3ページから始まって、15ページでもう恋愛話ですからね。
その始まってから恋愛話までに、

兵が都を駆け抜けて、
戦を避けるために逃げ始めて、
でも逃げようとしたのを止めて本能寺まで現地取材に行って、
その戦火の状態を写生して、
現地にいる足軽に見とがめられて、
そこからあっさり逃げ出せて、
大徳寺へ避難して千宗易と長々と会話し、
家に戻って、
子供を預けている本法寺へ行く。

そこまでやるんですからね。12ページで。

その後、本法寺で子供の世話をしてくれている女性に恋心を持っているシーンを2ページ。
長谷川等伯の出自の説明で1ページ。
本法寺の住持、日通との会話で2ページ。
堺にいる長男の帰宅で2ページ。

冒頭の正味16ページでこれですよ。いくらなんでも飛ばしすぎです。

例えていえば新幹線の窓の風景。それも遠景ではなく、窓のすぐ外の近景。
エピソードも人物も、突然現れてはそれと見定める暇もないうちに過ぎていく。

(わたし自身は新幹線は決して好きな乗り物ではないが、それでも)
遠景は見て楽しめる部分はあるだろう。景色として。
でも近景の、電柱か何かわからないもの、一瞬の影。
――新幹線に電柱があったかどうかは定かではないが、
何かビュンっと音がして通り過ぎていくものだけを楽しむことは出来ない。

なにしろみんな急に現れるものだから。
「ダレこれ?」って後戻りをして読み直さなきゃいけない。
初登場で、
「隣で寝ていた久蔵が」
「弟子の虎二が」
「宗易が」
「息子の文殊が」
「戻って来たさとが」
「日通はこの中だ」
「長男の宗宅が」とか
説明なしで出て来る。説明はその後なんだもの。
普通に読んでたら「久蔵ってダレ?」って思うわけやん。毎回そう。
だから誰やねん、お前は!最初に説明をしろ!

読んでいるうちに誰が誰かは定着していくのよ。
でも初顔の人の紹介が雑すぎるだろう!悪い意味でさりげなさすぎるから、
「あれ?前に出てきたっけ?この人」と思わざるを得ない。

エピソードも淡々と現れては消えていく。
盛りあがりというものがほぼどこにもない。
緩急がない。
深さがない。

主人公の等伯は、心理描写はまあまあボリューム多めなんだけど、
長谷川派の商売の立ち行きばっかり考えていて、絵師としての心情が弱め。
絵師としてのエピソードは、「耶蘇図」関連がちょっとある他は
なにしろ現れては消えていくので全然深まらないのよー。

もう少し後になると、話は親父(等伯)から急に息子(久蔵)に移る。
移るのはいいけど、突然移るから、「は?え、なに?」になる。
そしてやっぱり突然久蔵は、知り合いの人妻といい仲になる。
ほんの数ページで。久蔵がどんな人かも定着しないうちですからね。

そして不審なのが、この不倫相手をけっこう詳しく書くんだよなあ。
この人の心情を書くんなら、むしろ(等伯の後妻になった)さとを書いた方が
納得できるんだが。

で、最大限に納得できないのは、等伯の息子の久蔵の不倫相手の璃枝の夫、
義稙の心情まで書く。で、この人は最後の最後に重要な役で戻って来る。
わたしは、あの役はむしろ蝦蟇の役割ではないかと思ったよ。
だいたい蝦蟇はどこへ行った。長崎まで流れてそれっきり?

「松林図屏風」という話で、等伯のことを書くのは妥当だろう。
その息子久蔵のことを書くのも妥当だろう。
でも久蔵の不倫相手の心情にけっこう尺を割くのはどうかと思うし、
何よりその旦那だった人までくわしく書く必要はないんじゃない?

どんな人かわかったという意味では、この不倫相手の旦那がどんな人間が一番わかった。
ある意味で一番深かったかもしれない。でもそれじゃダメなんじゃないか。

璃枝の内面を描く意味があるのか疑問だったし、久蔵も面白みがない。
それを言えば、等伯に面白みがないことが最大の失敗だと思うよ。
工房経営者の苦労は描けているけど、やっぱり絵師としての内面が面白くなければ。

きりしたんの絵とか急に出てくるけど、長谷川等伯の絵に西洋画の影響が見て取れる
ということなんですか?
そうでないなら、ここにきりしたんを持ってくるのは恣意的で感心しない。
蝦蟇は印象的な人物で、造型は謎めいていていいと思うんだけど、
ちゃんと設定されているかというとそんなことはない。

そして一番ダメなところは、タイトルが「松林図屏風」なのに、
「松林図屏風」を描く部分が全然書けてない。
これは看板に偽りありというべき。



言い回しにところどころひっかかる部分があったのだが、一番気になったのは
「この世あらざる絵」。
これって相当重要なキーワードとして頻出するんだけど、……これって正しい言葉?

わたしは国語は得意だったけれども、文法は完全に捨てていた人間なので
文法的に正解かわからない。でも耳馴染みがない気がする。
「この世ならざる絵」ならわかる。
「この世にあらざる絵」なら気にならない気がする。
だが、「この世あらざる」はどう?「この世あらず」は変ですよね。


唯一美点といえば、……久蔵の「桜図」を描くところは多少良かったかも。
久蔵本人のキャラクター造型が納得できないのであくまで「多少」だけども。
あと前述の通り、一文一文は嫌いではなかった。全然響かないだけで。

ええ加減長々と書いてしまったからもう切り上げるが、
長谷川等伯の小説、もっといいものを読みたかったよ。
等伯についての関連本を探したが、図書館にあるのはほんの数冊。
しかもあまり詳しいことはわからず、略歴に毛が生えた程度の情報量しかないんだよね。
だからこそ、小説家の想像で豊かに肉付けをして欲しかった。

次は安部龍太郎の「等伯」を読む。……でもこちらも期待薄。
だってこの人もジャーナリストだった人でしょ。――そう思って確認してみたら、
ジャーナリストではなかったのね。公務員だったのね。
あら。苦手意識を持っていたが、元公務員の小説家には今まで当たったことはないので、
特に偏見はない。いや、堺屋太一に手が伸びない自覚はあるから偏見はあるのか。

こちらは、思ったよりも面白かった!となったらいいなあ。


コメント
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