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クルシャの天地

慶雲と虹





前回の記事も使いましたが、京都タワーの虹を捕らえた写真から。









夕方、東方にある雲が丁度良いスクリーンになって
分光されておりますよ。



虹とは言いますが、所謂彩雲や慶雲というのもこの類
でして、「夕に現れて五彩を生ぜしむ」と瑞兆の類を
記した書にあったと8世紀初頭に本朝で奏上した云々と
いう話がありますが、瑞兆を記した書などと仄めかさず
はっきりと『列子』「湯問」に書いてある、あれでござ
いましょうと言えなかったのか?








道家を抑えないと仏国土建設が難しくなると、当時の役人ら
も一時、思案投首でもしておったのではなかろうか。
大概のことは、今と変わらないと思って良い。








ちなみに、『列子』には平和が続いた瑞兆として他に「醴泉(れいせん)」が
涌くとか甘露が降るなどと書いてあります。

飼主の居る天使宮から指呼の間に三善清行邸跡の石碑があって、
このあたりを以前は「醒泉(せいせん)」と呼んでました。
初めて醒泉という語を見たとき、いずれ醴泉の間違いであろうと
思ってましたが、さにあらず。

清行が居たくらい天下の学識の中心地だったので、醴泉を
最初から踏んでおいて、近くの名水「醒ヶ井」こと「佐女牛井」
に掛ける形で、「醒泉」すなわち「醒める泉」としたらしい。

ことによっては醴泉よりひとつ上の醒泉くらいの矜恃を賭けて
名付けられたものではないか。

ここからでも秋になれば、日暮れ前の瑞雲やら慶雲やらが
望めたことであろうし、やれ目出度や天朝は四書五経の大徳
備われり、そんなことを嘯いて居夜郎自大。己の八男
が吉野修験に出ている間に頓死してしまう清行。哀れなり、
道真を追い儒学道学を窮めしも、天与の命数は算じ損じたり。
一条からとって返した八男が、急ぎ手近の蒟蒻を犠牲に三途の川
から戻り橋、いかに清行修験の功徳を心得たか、なんてことに
なってしまった。その後、仏を拝んで二年ばかりの余生を過ごし
ましたとやらの、良く出来すぎた中世説話まで、もれなく付いてくる。








驕傲起こすまじきことよ。
学徳により、懺悔の余生を許さるる、の清行の巻。








クルシャ君聞いてるかな?


講談風にしてみましたよ。
聞いてない?

とりあえず、虹の投射された雲のことを慶雲とか彩雲とか
言うのです。
そして、海軍試作偵察機「景雲」というやつも、慶雲と
同じ意味だが、例によって「間に合わなかった」。




 

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