2018年に発表された論文によると、人間は会話相手からの好意を過小評価する癖があり、また会話相手への好意はきちんと発生することがわかったという。
これはつまり「自分はよく思われてなさそうだけど、相手はいい人そうだ」という考えを、会話に参加した人間どちらも抱いている可能性が高いということ。
明確に嫌われる要素や拗れた性格特性などの特例を除き、対人の場ではこういった思い込みと実際の評価とのギャップが存在しているらしい。
人間はびっくりするぐらい、対人関係に臆病だ。
対人関係や集団での状態が生存に直結する社会的な生き物だからか、にしても度が過ぎるほどに対人関係に臆病だ。
あの人に好かれているだろうか。周囲に嫌われていないだろうか。集団ではどのように思われているだろうか。社会になじめているのだろうか。
強弱はあれ、そんなことを私たちは延々と自己評価している。そしてその自己評価をもとに、慎重に慎重に行動するのが基本だ。
時には周囲の批評を真に受け、より深く陥ることもあるだろう。嫌われるのが怖いから、そうすることもあるのだ。
だが、それらの問答はあくまでも自己評価の域に過ぎない。
制御できない反芻思考よろしく、あまりあてにならないものだ。
だいたいの人間は、各々が対人関係の自己評価に陥るぐらいには自分に意識の比重が傾いている。
言い方が非常に難しいが、いたずらに他人を貶めるだけの意識と観察を、そもそも向けていないことがほとんどだ。
いたずらに他人を貶めれば周囲からしっぺがえしを食らうのは目に見えてわかるから、わざわざ意識と観察を貶める方向に向ける必要がない、ともいえる。
つまりだな、
人間である君は目の前にいる人間に対し、特に理由もないのに傷つけたりはしないだろう?
それは人間である相手も同じ事で、相手も特に理由もないのに君を傷つけたりはしないはずだ。
特例の幅はそれなりに広いが、少なくともカフェでの待ち合わせに応じてくれる相手は、いたずらに君を傷つけたりはしないはずだ。
君がそうであるように、君がそうである限り。
ーーー彼は昨日言い放った失言をひどく気にしている素振りだった。
「キミたちになんて言われようと、ボクは黙って頷くほかないんだ……」
君の失言より、君の落ち込み用のほうがよっぽど気になるし、心にくるよ。
参考文献
Erica J. Boothby, Gus Cooney et al. (2018) The Liking Gap in Conversations: Do People Like Us More Than We Think?
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