2018年に発表された論文によると、病気・ガンなどの健康への脅威に嫌悪感を覚えた人は、病気・ガンなどに関する知識を知ろうとしなくなったという。
「何故だ!?」
「何故大衆はこの危険なものの詳細を知ろうとしない!?」
「大衆のこのような行為が、まさにこの危険なものに脅かされるそれだというのに!? なぜ大衆はまるで知らないかのようにふるまってしまうのだ!?」
「私たちは確実に警告したはずだ! 大衆が望む分だけ、求める分だけ、いやそれ以上に情報を提供したはずだ!」
「これがどれだけ危険なものなのかは早期から教えたはずだ! それに嫌悪感を抱き学習できるように促したはずだ!」
「だから覚えているはずだ! それだけ危険で恐怖であるものかを知っているはずだ!」
「なのにどうして、どうして詳細を、続報を知ろうとしないのだ!? 危険なものへの新たな知識を蓄えようとしないのだ!?」
嘆く彼らが行ってきた「脅威がどれだけ脅威足りうるかを教える」という行為は、間違いではない。脅威を鎮めるため、遠ざけるため、そして備えるためには知識というものは必須になってくる。
しかしその情報は、大衆にその危険なものに対して嫌悪感を抱かせる材料になってしまったのだ。
もっとも、彼らはそうなるよう仕組んだらしいが。
嫌悪感とは人間が持つ生存本能の1つで、自分の生存を脅かすものを学習したときに、その脅かすものから徹底的に遠ざかろうとする一連のプロセス、もしくはそのプロセスと同時進行する感情のことを指す。
脅かすものがあるとすれば、それ自体も、それを学ぶことも、それを知ることも徹底的に避けてしまうのだ。
嫌悪感を発生させて学習のきっかけにしよう、と企んだところ悪いが嫌悪感は学習を促す刺激ではない。むしろ学習を含めた脅威への行為や関与の回避を促すものなのだ。
脅威が脅威足りうるかを説明するときは、感情をかき乱さぬよう淡々と教えたほうがいいのかもしれない。事実を何の飾り気なく、起承転結しっかり結んで。
ワイドショーのような、悪戯に嫌悪や恐怖をあおる教え方は逆効果だ。
参考文献
Scott Clifford, Jennifer Jerit (2018) Disgust, Anxiety, and Political Learning in the Face of Threat.
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