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2014年に発表された論文によると、空想上での意思判断と実際の意志判断との相関関係は非常に弱く、空想上での行動や意思は現実のそれにあまり影響しないことが分かったそうだ。
つまりこれは頭の中でどれだけ正論が思いついても、その正論が現実でできるかどうかとは別であるということ。
ことわざなら「言うは易し」となる現象だ。
頭の中で延々と、延々と正論と理論ばかりを語る自分。
正論と理論ばかりを話すから、疲弊下の感情論ばかりでは一枚上手に立たれてしまう自分。
語られる正論と、現実を無理やり見比べられより疲弊が蓄積していく現実の自分。
頭に流れる正論を止めたく言い重ね、どんどん時間が過ぎていく現実。
……そんな「正論を語る自分と現状を語る自分のせめぎ合い」を経験した人は少なくないだろう。
頭の中に居座る自分は、ぐうの音も出ない正論と理論ばかりを構築していくから下手に手が出せない。まとまらないまま批判を出せば、その批判すらコテンパンにやられる始末。
そしてせめぎあいの中ではっきりと見えてくる理想と現実のギャップに、頭を抱え苦しみもがいてしまう。彼が表れてしまうだけに疲弊した心身は、そのギャップにより蝕まれていく。
普通にしんどいので止めたいのだが、正論と理論ばかり言ってくる彼にかつ術はあるのだろうか?
ある。
頭の中にいる自分に、事実を見させればいい。
「容易に想像できる正論が、素晴らしく完成度の高い理論が、想像できなかった要素により無下にされた」事実を見させればいい。
彼は基本的に自己認識が甘い。それは彼をかくまっている私たちもそうだ。
基本的に私たちは、自分たちでは気づけないような認知の歪みや、それを構築できるだけのバイアスがあったりする。ダニングクルーガー効果や平均以上効果などが例に挙がる。
自分には想像できない、認知できない要素はいくらもある。
それを踏まえずに語られる正論は、もはや暴論だ。
失敗しないことを前提とした原則や、ヒト・モノ・カネ・ジカンが足りない現場に「やれば、できる!」と𠮟りつける上司が掲げるような、どうしようもない暴論のことが多い。
彼の言い分は、それっぽく聞こえることがほとんどだ。
「ぐうの音も出ない正論や理論ばかり」を彼が言ってはばからないのであれば、こういい返してやれ。
「ではなぜ、私にはそれができていないんだ?」と。
「今までそう謳ってきて、その通りになったことはあるか?」と。
ーーー「理論上、人間はジェットコースターに乗ることができる」
怯える女の子をより泣かす勢いで訴える彼に、私はこうささやいた。
「キミが彼女を乗せたい理由と同じもので、彼女は乗りたくないんだぞ」
参考文献
Adam Feltz (2014) Experimental philosophy of actual and counterfactual free will intuitions.
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