●結界(けっかい)
◆結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられているが、大和語としては端境やたんに境ともいう。
◆結界(けっかい、Skt:Siimaabandha)とは、聖なる領域と俗なる領域を分け、秩序を維持するために区域を限ること。本来は仏教用語であるが、古神道や神道における神社なども、同様の概念があることから、言葉として用いられているが、大和語としては端境やたんに境ともいう。
仏教・密教
清浄な領域と普通(もしくは不浄)の領域との区切ることである。これにはいくつかの種類がある。
摂僧界(しょうそうかい) - その内側で受戒や布薩などを行う
摂衣界(しょういかい) - その内側で三衣を離れて止宿しても罪にならない
摂食界(しょうじきかい) - その内側で食を煮ても罪にならない
また、密教では、修行する場所や道場に魔の障碍が入らないようにするため、結界が行われる。これには以下の3種類がある。
摂衣界(しょういかい) - その内側で三衣を離れて止宿しても罪にならない
摂食界(しょうじきかい) - その内側で食を煮ても罪にならない
また、密教では、修行する場所や道場に魔の障碍が入らないようにするため、結界が行われる。これには以下の3種類がある。
国土結界
道場結界
壇上結界
高野山や比叡山は国土結界、護摩修法は壇上結界の例として挙げられる。
道場結界
壇上結界
高野山や比叡山は国土結界、護摩修法は壇上結界の例として挙げられる。
神道・古神道
古神道である神籬(ひもろぎ)や磐座(いわくら)信仰は、神の依り代であるとともに、その鎮守の森や森林や山や海や川や岩や木などは、禁足地である場所も多く、神域や常世と現世の端境を示し、結界としての役割も果たしている。神籬の「籬」は、垣の意味であり、磐座は磐境ともいい境を意味する。この考え方が積極的に用いられ、古来より郊外の集落の境や辻などに配置された道祖神、庚申塔、祠などの石仏は、災厄を集落に入れないようにするための、結界の役割をしていたともいわれる。
神道においても、結界は神社などでも用いられ、たとえば境界線を示すために、神社・寺院などの境内や建築物では意図的に段差を設けたり、扉や柵、鳥居や注連縄などを用いる。一般の家庭などでも、注連縄飾りや節分の鰯の干物なども結界である。
古神道や神道において、一定範囲の空間に設定されたタブー(禁足)を視覚化したものとも言え、それは聖なる領域(常世)と俗なる領域(現世)という二つの世「界」を「結」びつける役割をも持つ。
結界の例
自然崇拝である古神道の影響を受けた仏教、密教である山岳信仰でも用いられ、修業の障害となるものが入ることを許されない場所や土地に対しても用いられるが、女人結界などがその例である。なお結界は僧事をなすために設けたものであり、本来、女性が入る事を禁ずるためではない。然るに高野山などの結界の地に女人が入るのを禁じたのは、戒律の条文にないものを地方の宜に応じて設ける随方毘尼(ずいほうびに)の一種である。
この他、生活や作法上注意すべきなんらかの境界を示す事物が、結界と呼称される場合もある。作法・礼儀・知識のない者は境界を越えたり領域内に迷いこむことができてしまい、領域や動作を冒す侵入者として扱われ、無作法または無作法者とよぶ。
また、日本建築に見られる「襖(ふすま)」「障子(しょうじ)」「衝立(ついたて)」「縁側」などの仕掛けも、同様の意味で広義の「結界」である。商家においては、帳場と客を仕切るために置く帳場格子を結界と呼ぶ。
空間を仕切る意識が希薄な日本においては、日常レベルでもさまざまな場面で「結界」が設けられる。例えば、「暖簾(のれん)」がそうである。これを下げることで往来と店を柔らかく仕切り、また時間外には仕舞うことで営業していないことを表示する。このような店の顔としての暖簾は、上記の役割を超えて、店の歴史的な伝統までも象徴することとなる。
茶道における結界
静謐を旨とする日本独自文化の茶道においては、もてなす側の亭主と客との間にある暗黙のルールを視覚化するため、種々の仕掛けを設けこれを結界とする。
茶道具の一つで、客畳が道具畳に接続している時に、その境界を表示するために「炉屏」というものを置き、結界とする。
茶室に至る庭の露地などで、客が立ち入るべきでないことを示すため、目印として縄で結わいた石、あるいは小石に差し渡した竹筒などを置き結界とする。
茶室への入り口であるにじり口での、低く抑えて意図的に入りにくさを強調する仕掛けも、茶席を聖なる非日常空間とするための結界である。また、茶室に入る前に手を水で清めるための「蹲踞(つくばい)」の仕掛けも同様である。
フィクション作品における結界 [編集]
小説、ゲーム、漫画など、フィクション作品に登場する「結界」とは、ある領域内を守る目的で、なんらかの手段や道具などを用いて持続的な霊的もしくは魔術的な防御を施すことを言う。例えば霊的な能力を持つ者が、その力を用いて悪霊などの外敵を排除し侵入させない霊的な壁に囲まれた空間を生じさせるという描写が為される。逆に結界の中に邪悪な存在や異質な存在を封じる(閉じ込める)ことで外界に対する影響を抑える場合などもある。
総てWikipediaより
茶室に至る庭の露地などで、客が立ち入るべきでないことを示すため、目印として縄で結わいた石、あるいは小石に差し渡した竹筒などを置き結界とする。
茶室への入り口であるにじり口での、低く抑えて意図的に入りにくさを強調する仕掛けも、茶席を聖なる非日常空間とするための結界である。また、茶室に入る前に手を水で清めるための「蹲踞(つくばい)」の仕掛けも同様である。
フィクション作品における結界 [編集]
小説、ゲーム、漫画など、フィクション作品に登場する「結界」とは、ある領域内を守る目的で、なんらかの手段や道具などを用いて持続的な霊的もしくは魔術的な防御を施すことを言う。例えば霊的な能力を持つ者が、その力を用いて悪霊などの外敵を排除し侵入させない霊的な壁に囲まれた空間を生じさせるという描写が為される。逆に結界の中に邪悪な存在や異質な存在を封じる(閉じ込める)ことで外界に対する影響を抑える場合などもある。
総てWikipediaより
日本はこんな概念まで生み出してきた国。
天皇の元のお住まいは昔からソバを誰でも通れるところにあった。
いくつかの特例はあるけれども殆ど犯されていない。
外国にはこんな思想は無い。
権力者は必ず高い城壁に守られてその中である意味ビクビクとして日々送っている。
特に現代の北朝鮮など見ていると可哀相になるくらい。
日本人が作り出し連綿と守り続けて来たモノ。
そう簡単に壊れるモノでは無い。
名前を挙げれば陰陽師の安部の清明。密教の空海。修験者では役の行者。その他幾多の庶民が関わり創り出してきた文化。
学者では無いので文献ドウのコウのと言われると何も答えられないがこの体の中からこの国の文化を創り出してきた根っこが縄文にまで繋がっていると訴えかけてきている。
結界は色んな形がある。
鳥居や巖など塩出する場合もある。
おかげさまで我々は生かされてきたし生かされていく。
本におもろい日本である。
・【ムー的結界考察】「結界」とは何か?神々の日本列島結界呪術
https://getnavi.jp/entertainment/332776/ 2018/12/22
本誌読者なら、「結界」という言葉はよくご存じだろう。
しかし念のためということもある。
ここでもう一度、結界について確認をしておこう。
神社の注連縄は、神の住まう聖域とわれわれの住む世界を隔てる結界である。
そもそも結界とは、いったい何なのだろうか?
結界という言葉自体は本来、仏教用語である。
実際、『大辞林』をひもとくとまず最初の意味として、「仏道修行に障害のないように、一定地域を聖域として定めること。寺院などの領域を定めること」とある。
つまり、仏教という教団に所属する修行者(僧や尼)たちの修行が妨げられることがないように、ある一定の地域を物理的に区切り、外界との接触を避けたのが始まりということになる。
寺の山門の脇に、「葷酒許入山門」と刻まれた石が置かれているのをご覧になったことがあるだろうか。あれは、ここから先の寺域は結界で護られている、という宣言なのだ。ちなみに葷くんとは、ニンニクなどの香りの強いものを意味している。
・結界とは?葬式で見かける幕やしめ縄の意味について 2021/04/20
https://www.e-sogi.com/guide/15207/
結界とは、ある特定の場所へ不浄や災いを招かないために作られる、宗教的な線引きのことです。仏教用語ですが、日本の神道にも同様の考え方が見られます。お葬式などで見かける幕やしめ縄は、結界をつくるために飾られています。
ここでは、結界とは一体どのような意味を持つものなのか、また、葬儀を含めた日本の文化とどのような関わりがあるのかについて、歴史を紐解きながら詳しく解説していきます。
目次
1 結界は浄不浄の線引き
2 葬儀における結界
3 仏教における結界
4 神道の結界
5 お箸も結界
6 茶道と結界
7 地域と結界
8 生活の中に残る結界
9 まとめ
コメント
nelcco
本当におもしろい国です。忘年会などは無礼講だと言われますが、そこには礼儀の境目というものがあり、あまりに無礼な人はいかに無礼講だとはいえ、嫌われます。
自由とはいっても形式として侵入してはならない領域は存在し、日本人は昔から暗黙の了解として文化のしきたりとして仕切りを区別して来ました。
それを明確な法として言葉で定義し、侵害しただの、法にはギリギリ触れないだの、優れた法律を持つ国が果たして高い文化水準を意味するかと言えば、法をめぐる汚い争いを見ればかえってそれが虚偽ばかりなのは一目瞭然です。
18世紀初頭の巨大人口都市としてロンドン、パリに並び、江戸がありましたが、立派な法が制定されていた前者の二都市は市民レベルでの治安は最悪だったといいます。一方で驚くべきことに江戸は経済成長率がほぼゼロなのに、なぜか地域自治体が結束して自分たちで市内の治安を維持する仕組みがあったそうです。
火消しの仕事は当時の江戸住民の憧れの的であり、社会不適合の血気盛んな連中は自ら命を張って危険な火消し作業に臨んだそうです。長家のオーナーである大家は住民たちから家賃を徴収し、その一部を礼賃として火消したちに渡していました。微々たる額にも関わらず火消したちは火消しであることを誇りとし、非番のときは地域を脅かすような外部の人間が揉めごとを起こしていたら、義侠心から争いの鎮圧に出動したそうです。
行政の税収入がなく、立派な法律がなくても江戸が世界一の治安を誇っていたのは、ボランティアで暴力沙汰を解決する火消したちが市民たちにとっての暗黙の結界守護者だったからです。
義侠心はいつの間にか失われ、それとともに善悪の分別は高額な報酬を弁護士に支払うことで解決しようとし、何でも金で解決するのが当たり前になりました。金さえ払えばコンビニ一つで住人たちとは無縁の孤立した生活が可能な世の中です。「税金を支払っているし、不道徳といわれようが法律に触れないのだからどんな生活をしようが自分たちの勝手だ」という欧米のスタイルが大手を振るようになりました。
しかしプライバシーという偽りの結界がいつまでも持つわけがありません。本当の結界は生活をともに共有する地元との暗黙の了解が前提です。誰にも明快なこの理屈を今の時代に復活する上で世界は日本に学ぶべきと信じます。
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