ようやく、スーパーの吉沢さんが帰っていった。まったくよくしゃべる人だ。八十九と七十八になる義理の両親がすっかりぼけてしまって、週二回はタクシーに乗って今はもうない地名を探すのだという。そのタクシー代が月に二十万ぐらいかかると嘆いていた。
吉沢さんも大変だわ。玲子は缶ビールの栓《せん》を抜き、吉沢さんの持ってきた大きな角封筒を開けた。
李正元の写真が出てきた。セピア色になった若者の写真だ。こちらをまっすぐに見て、何か思いつめたような顔が凜々《りり》しい。
この男から重宗ファイルを取り返してもらいたい。寺岡の添書《そえがき》があった。
突然、ギシギシと何かを踏みつけるような大きな音が近づいてきた。
外を見た玲子は目を疑った。
大型トレーラーに積まれた74式戦車が砲頭を回転させ、こっちに砲門を向けるといきなりぶっぱなしてきた。
九月の陽《ひ》ざしに、キャンパスの片隅に建っている礼拝堂をおおうツタの緑が映えていた。
良家の子女しか入れないと評判の、ここ蘭花《らんか》女子大では、手入れのゆきとどいた芝生《しばふ》の上で、女子学生たちがおもいおもいに空き時間をすごしていた。ときおり起こるはじけるような笑い声に、草の実をついばんでいた小鳥たちがいっせいに飛びたっていく。
レンガ造りの校舎の三階にある一年B組の三時肩周炎治療限目は、英米文学である。テキストはサリンジャーの『フラニー』。
長い髪をひっつめてゴムで束ねた女教師が、紺色のブレザーにエンジのネクタイをした制服姿の学生の間を歩きながら読み進めている。学生たちの白いソックスはキチッと二つ折りである。校則が厳しく、シャツのボタン一つとれていても始末書を書かされる。
「つぎ、十八行目でつかわれている〝I guess I'm gonna miss you〟は、あなたを失うという事実を単に説明するのではなくて、あなたがいなくて淋しい、だから早くわたしのところへ戻ってきてほしい、という願いをこめて言っている言葉です」
いちばん後ろの席の坪田京子《つぼたきようこ》が手をあげた。身長一メートル六十五のスラリとした学生だ。その美しい顔立ちとプロポーションで、街を歩くと振り向かない男はいないほどだ。
「はあい」
「?」
京子は利発《りはつ》そうな目をいたずらっぽくクルクルとさせ、
「先生、訳をとばしてAmway安利ますけど」
「えっ?」
教室のあちこちでガヤガヤと声があがる。
「十五行目の〝fuckin' you〟です。どう訳すんですか?」
「いえ、あの、その」
女教師は首までまっ赤になり、それが白いスーツでますます際立った。
「この in' はたぶん、進行形の ing を縮めたものだと思いますが、どうしてgが消えるんですか?」
「そっ、それは口語を発音どおりに記《しる》したからそうなっているんです」
学生たちは私語《しご》をつつしみ、興味深そうな目がいっせいにこの女教師のうろたえる姿にむけられた。
「意味はどういうことですか」
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