1
夕方になり、日が傾き出すと
一気に杉の森の中は日が差さなくなります。
その、最後の一筋の光が高野槙にだけ当たり、緑色だけが際立っていて、僕の目を引きました。
2
石と杉が苔むすだけの永遠に静寂の世界は
死者が永眠するにふさわしい場所
なぜか心落ち着くのは
なぜなんだろうと
思います。
3
司馬遼太郎の文学碑
司馬遼太郎の高野山についてのエッセイの冒頭部分だそうです。
4
焼きたての焼き餅
店頭で焼いてはります。
かなりの美味しさです。
ふわふわトロトロ。
高野山に来たら、必ず食べたいですね。
5
壇上伽藍の根本大塔(こんぽんだいとう)
お大師さま、真然大徳(しんぜんだいとく)と二代を費やして816年から887年ごろに完成したと伝えられます。お大師さまは、この大塔を法界体性塔とも呼ばれ、真言密教の根本道場におけるシンボルとして建立されたので古来、根本大塔(こんぽんだいとう)と呼んでいます。多宝塔様式としては日本最初のものといわれ、本尊は胎蔵大日如来、周りには金剛界の四仏(しぶつ)が取り囲み、16本の柱には堂本印象画伯の筆による十六大菩薩(じゅうろくだいぼさつ)、四隅の壁には密教を伝えた八祖(はっそ)像が描かれ、堂内そのものが立体の曼荼羅(まんだら)として構成されています。<高野山HPより>
大きすぎて、24ミリまでしか広角レンズを持っていなくて、正面からは全部入りきらなかったので
こんな撮り方になりました
6
お大師さまが鋳造を発願され、真然大徳の時代にようやく完成したと伝えられています。火災などで度々鐘楼が焼失し、三度ほど改鋳されました。現在の銅鐘は天文16年(1547年)に完成したもので、直径2.12メートルの大鐘で、日本で四番目に大きな鐘であったことから高野四郎と呼ばれるようになりました。現在でも毎日午前4時、午後1時、午後5時(春季彼岸中日より秋季彼岸中日までは午後6時)、午後9時、午後11時の5回に分けて時刻を高野山内に知らせています。
梵鐘で調べて見たけど、さっと調べただけでは
高野四郎はあまり有名な鐘ではないようです・・・(ウイキペディア的には)
でも、ウイキペディアによると、梵鐘の世界大戦から現在の扱いはかわいそうなものがありますね。
戦時中は日本の9割の鐘が溶かされ、武器などに使われたそうです。
本当に戦争って嫌なものですね。
そして、都会の中のお寺には、鐘の音を騒音として警察や寺に苦情を寄せる人たちが増えて
鐘を撞くのをやめているお寺が多いそうです。
確かに、そうですね・・・
電車や車の音の方がよっぽど騒音だと思いますけどね・・・
鐘の音で心安らぐ人と、そうでない人がいるのですね。
高野四郎より大きいベスト3の鐘はどこなのか、また調べたいと思います。
7
やはり毛筆による漢字は和のテイストたっぷりですね。
筆跡の違いもわびさびな感じです 笑
8
中門の四天王のうちお二方を撮って見ました
廣目天、胸にセミが止まっています。
薄暗かったのでフラッシュを使いました。
なんかのっぺりしてイマイチ。すいません。
中門再建については去年、再建費用の寄付をさせていただきました。
寄付のお礼に、自分と家族の名前の入った祈祷札を中門の内部に奉納してくれてるそうです。
金堂の正面手前の一段低い所に、そびえる五間二階の楼門です。壇上伽藍はかつて天保14年(1843年)の大火により、西塔のみを残して、ことごとく焼き尽くされました。先代の中門もその折に失われ、今日までなかなか再建叶わずにおりましたが、高野山開創1200年を記念して170年ぶりに、この度再建されました。持国天(じこくてん)像・多聞天(たもんてん)像・広目天(こうもくてん)像・増長天(ぞうちょうてん)像の四天王がまつられています。 なお、持国天像と多聞天(毘沙門天)像は二天門であった先の中門に安置されていた像で、類焼をまぬがれてこの度保存修理が完成しました。広目天像・増長天像は現代の大仏師松本明慶師の手により新造されたものです。
9
フラッシュなし。
増長天。
胸にトンボが・・・
大仏師松本明慶師の記事がネットで見つかりました。
リンクしておきます。
11月初旬の高野山(2016)
これで今回の高野山の写真はおしまいです。
また次はハワイ記事に戻ります。
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