54(フィフティ・フォー)―ザ・ラストパーティ [単行本]
…続き
デヴィッド・マンキューソがマンハッタン、ローワー・イーストで初めて<Loft>を開いたのは1970年のことだった。
<スタジオ54>開店が1977年4/26で前回の記事にもあるように『Life』がディスコを取り上げたのが1978年11月号で『サタデーナイト・フィーバー』公開が77年12月だから、そこがディスコの(少なくとも産業的には)頂点だったと見ていいだろう。
ディスコの歴史においてオリジネーターが<Loft>、イノベーターが<パラダイス・ガラージ>だとすると、<スタジオ54>はエレベーターということになるだろうか。
ディスコというとイメージする煌いた雰囲気はどうやら<スタジオ54>によってもたらされたところが大きそうだ。
サタデー・ナイト・フィーバー 製作30周年記念版 デジタル・リマスター版 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD] [DVD]
50年代後半~60年代前半の"テクノロジーとアメリカのポップ・ミュージックに対する戦後ヨーロッパの熱狂(P.16)"が「ディスコティーク」を生み出した。これの名付け親はかのロジェ・ヴァディムだそうだ。上流階級の遊び場としてヨーロッパ中に広がった。ロンドンでも<アナベル>や<ウィップス>、<アドリブ>といった店があり「ポップ・シーンの金ぴか連中のための隠れ家で、よなよなビートルズやストーンズのメンバーなどがたむろっていた」という。60年代半に於けるロンドンのディスコは中産階級、労働者階級出身と階級を問わず、マリー・クアントやオシー・クラークらのファッション・デザイナー、ヴィダル・サスーンといったヘア・デザイナーが社交界の若者と対等の関係で顔を合わせた場だった。
個人的にはここに鍵があるように思う。
階級やなにやらをこえて、集まる場所、サロン的な場所としてディスコ、ナイト・クラブはまずあるのだ。
<スタジオ54>は沢山の人が集まった。しかし、音楽的には何も影響を残さなかったとってもいいだろう。ドア・チェックを締め出されたCHICが「Le Freak」を生み出したくらいだ。
<Gallarer>のDJニッキー・シアーノは同時に<スタジオ54>でも廻していた
…続き
デヴィッド・マンキューソがマンハッタン、ローワー・イーストで初めて<Loft>を開いたのは1970年のことだった。
<スタジオ54>開店が1977年4/26で前回の記事にもあるように『Life』がディスコを取り上げたのが1978年11月号で『サタデーナイト・フィーバー』公開が77年12月だから、そこがディスコの(少なくとも産業的には)頂点だったと見ていいだろう。
ディスコの歴史においてオリジネーターが<Loft>、イノベーターが<パラダイス・ガラージ>だとすると、<スタジオ54>はエレベーターということになるだろうか。
ディスコというとイメージする煌いた雰囲気はどうやら<スタジオ54>によってもたらされたところが大きそうだ。
サタデー・ナイト・フィーバー 製作30周年記念版 デジタル・リマスター版 スペシャル・コレクターズ・エディション [DVD] [DVD]
50年代後半~60年代前半の"テクノロジーとアメリカのポップ・ミュージックに対する戦後ヨーロッパの熱狂(P.16)"が「ディスコティーク」を生み出した。これの名付け親はかのロジェ・ヴァディムだそうだ。上流階級の遊び場としてヨーロッパ中に広がった。ロンドンでも<アナベル>や<ウィップス>、<アドリブ>といった店があり「ポップ・シーンの金ぴか連中のための隠れ家で、よなよなビートルズやストーンズのメンバーなどがたむろっていた」という。60年代半に於けるロンドンのディスコは中産階級、労働者階級出身と階級を問わず、マリー・クアントやオシー・クラークらのファッション・デザイナー、ヴィダル・サスーンといったヘア・デザイナーが社交界の若者と対等の関係で顔を合わせた場だった。
そこにはナルシシズムと愚かさが多分にあったが、同時にエネルギーの噴出、可能性への大きな実感、目の前に突然な方展望といったものもあった。キンクスのレイ・デイビスは「みんながスターなんだ」と歌った。(P.17)
個人的にはここに鍵があるように思う。
階級やなにやらをこえて、集まる場所、サロン的な場所としてディスコ、ナイト・クラブはまずあるのだ。
<スタジオ54>は沢山の人が集まった。しかし、音楽的には何も影響を残さなかったとってもいいだろう。ドア・チェックを締め出されたCHICが「Le Freak」を生み出したくらいだ。
<Gallarer>のDJニッキー・シアーノは同時に<スタジオ54>でも廻していた
当時KRAFTWERKの「Trance Europe Express」をかけたことによって〈Studio 54〉から解雇されました。彼等はコマーシャルなディスコ・ソングをかけるように強要してましたから。NICKY SIANO、もう一人のマエストロが語るディスコ世界
Kraftwerk - Trans Europe Express HQ
<スタジオ54>が成功した秘訣は会員制クラブというスノッブさにあっただろう。
セレブといっても<スタジオ54>に認められなければ入れない。逆に認められればどのような階層、服装の人間でも受け入れた。
そこへは入れなかった人々が街角で始めたブロック・パーティがヒップホップへとつながっていったのではないかと自分は想像する。
54(フィフティ・フォー)―ザ・ラストパーティ [単行本]
まぁ、面白い本なので一度読んでみてください。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます