日々雑感

松平忠直

今日は母親より伝え聞いた松平忠直(家康の孫)について書く。

松平忠直といえば極悪人ということになっているようである。罪を得て九州の今の大分県大分市(当時で言う府内藩)に流されて生涯をそこで終えたのであるが、実は大分では松平忠直は極悪人とは認識されていなくて、大変愛されているのだ。大分には「一泊」という名のお菓子と「お蘭様」という名のお菓子がある。一泊というのは松平忠直のことで、お蘭様というのはその正室または側室だった女の人の名前である。大分の人間は忠直を愛し、忠直と忠直の愛した女の人の名前をお菓子の名前としているのである。

私の母は松平忠直が流されて幽閉されていた村の出である。津守という名の日本のどこにでもある農業を主な産業とする小さな村でその村は松平忠直の所領とされていた。今でも忠直の墓がそこにある。
忠直の屋敷の前には目付配下の者がいて忠直は屋敷を出ることはできなかったようだが、忠直が大分で愛されている理由は忠直はその屋敷に津守の村人をたびたび招き入れ、ものを食べながらいろんな話をしていたからだそうな。母から伝え聞くことによれば、忠直は村人にたいへんやさしかったそうである。(外に出ることができなかったのだから暇であったこともあったろう。) 

忠直は罪を得たとはいえ徳川家康の孫にあたる人間である。大分にあった府内藩は一応親藩ではあったが2万石強ほどの小藩であった。(親藩なので罪を得た忠直を受け入れて監督する役割を与えられたのであろう。) その小藩の役人としては、忠直の所領の村人をいきなり手荒くあつかうことはできなかっただろう。ましてやその村人が忠直と親しく話をしているとのことであれば、なおさらその村人を手荒くあつかえなかったであろう。津守の村人もそのことを承知していたのか、忠直をたいへん大事にしたそうな。

母より伝え聞く話によれば、明治維新になったとき武士の恰好をした数人が村へ来て、忠直の骨を持ち帰ろうとしたことがあったとのこと。武士の恰好をした人というのはおそらく徳川家関連の人と思われる。そのとき村人は「忠直さんの墓を暴くことなどさせん。(大分弁で”させられない”との意味)」といって竹槍をもって武士の恰好をした人たちを取り囲んだそうな。結局、忠直が村人に慕われていてその墓がよく守られていることが分かったので、その武士の恰好をした人たちは何もせず帰っていったとのこと。

終戦直後ごろまでは年に一度は忠直さんの日といって、忠直の命日は村のお祭りだったそうな。もう忠直が死んで随分の年月がたっていたにもかかわらず(300年ほど)、村人はその当時でも”忠直さん”と呼んであたかもちょっと前まで生きていた友人のようにしていたそうな。



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