Xーrated

横浜南部を根城に活動するバンド“X-rated”メンバーによる活動状況や日々感じた事を発信するブログです。

キオクノカタチ終~X-rat ed~

2010-04-29 10:29:06 | 履歴書
キオクノカタチ 終 ~X-rated~


前回までは、私とケンケン氏の出会いからバンド結成、
白昼堂々大三元氏加入に至るまでの道のり
そして私のターニングポイントについて紹介させて頂きましたが、
今回は、一気に現在まで辿り着きたいと思います。

さて、1999年の冬、当時溜まり場と化していた私のアパートで、
ケンケン氏といつものようにお酒にトークにと花を咲かせながら、次第にバンド名の話になりました。

私は兎にも角にも活動の“芯”になるような呪文が無いと先に進めない性分なのですが、
如何せん名付けのセンスが無い事と、
ケンケン氏の閃きには一目置いていましたので、尋ねてみました。

すると、既に酔っ払って目がトロンとフニャけたケンケン氏が
腕と腕をスナップを効かせて交差させながら、高らかに宣言しました。

「ホモ・チョップ!」

「レーベルはホモ・チョップレコードで決まりだな」

私は腹が捩れる程に笑い転げました。
当時栄華を極めていた某新興巨大レーベルをモチーフにしつつ、
その豪胆さと、鋭さと、あまりのバカバカしさに笑いました。

そしてこの瞬間、正に奇跡が起こりました。
ビッグバンが宇宙をそうしてきたかのように、
「ホモ・チョップ」は、私を更なる次元へと昇華させるに至りました。

私が幼少の頃より、クイーンとパタリロが大好きであった事、
つまりは、マイノリティな性癖への共感、
更にはゲイ・シーンという土壌とクロスオーバーして行ったのです。

そして一つの理想に辿り着きます。

「音楽版パタリロを製作したい。」

この発想に遅れる事数年、
腐女子やBLといったジャンルが確立され、
ゲイやニューハーフな方々がメディアに登場するようになり、
現在はすっかり定着したように思います。

完全なる追い風と泉が如く溢れ出るアイデアの数々に私は爽快感すら感じながら作品作りに勤しみました。

しかし、またここで私は踏みとどまった訳です。

流行に流されたくない。
何十年後、違う世代が聴いても面白いと感じて欲しいという願いも根底にあったのですが、

作る曲作る曲
出てくる曲の発想が、全部そっち系の歌詞になってしまうのです。
ゲイホール・スパイラルにハマってしまった訳です。
一事が万事こんな感じでした。

「あかん、このままだとこれ一辺倒になる、先ずはやっぱりバンド名だ!」

私はこの状況を打破すべく沢山の候補をイメージし、挙げてみました。

(下記はネタ帳にたまたま記載してあったバンド名候補の一部です。)

・ザ・快楽
・こい~ん
・麗しの暁
・ラ
・HEYブロック
・quod erat demonstrandum
・ペルフェイター
・salmon
・obscene[形]①みだらな,わいせつな②<口語>我慢ならない

とまぁ、何ら脈絡も感じない、
最後のなんて長すぎて自分で自分の首を絞めているようなもんですし、
当然どれもシックリきません。

そんな状況のまま、なんと昨年十周年も通り越し11周年の今年2010年

「そろそろ付けとかないと駄目だな」

と、考えていた3月初旬の出来事でした。

たまたまです。
たまたま目を通したアダルトコンテンツに記載してあったワードに目が止まり、私は叫びました。

「これだ!これっきゃないっ!」
そして半ば強引に決めたのが

「X-rated」

つまり成人向け
18禁というバンド名でした。

私が何をすれば良いのか、
真っ暗闇、
私の中の無に近い創造・創作の世界の遥か向こうで、
小さく瞬く「X-rated」という灯火の呪文は、私をゆっくり導き始めたのです。

ちょっと若作りな感も否めませんが…、

さて、ファーストアルバムの前振り役でしたキオクノカタチは、
今回を持ちまして一応最終回です。

非常に読み辛い作文で、不甲斐ない気持ちでいっぱいですが、
こちらを読んで頂いてから、アルバムをお聴きになられますと
楽しみが倍増すると思います。

では、ファーストアルバム「フィルシー・レッスン(仮)」でお会い出来る事を楽しみにしております。

連休前に

2010-04-23 17:26:06 | レビュー
ワタクシゴト

え~、連休中はちょこまか忙しくなりそうなので、
一足先に骨休み。

週末を群馬県はみなかみで過ごしております。

出発前日までの天気予報では曇りだったのですが、
埼玉県通過中になって午後から雪の予報に変わり、

ノーマルタイヤでビビリンな私、
少し手前の高崎で高速を降り、非金属チェーンを購入しようと、
しかし高崎に着いたのが朝の8時前、
カー用品店の開店は10時から、

どうしようか迷う前に、裏手に大きなスーパーマーケットを発見!

大変激安でしきりに買い物かごに詰めていたら、

「まだ開店前なんですよ」

と、生き恥を晒し、仕方無いので高崎を徘徊
通勤渋滞時間で通勤渋滞等々のストレスを解放する為だったのに、何だか不思議な心境になりつつ、
9時になったのでスーパーへ戻り、念願の買い物を果たして時間を潰し、
さて、いざカー用品店へ、

何だか親切そうなお兄さんがタイヤを整理していたので聞いてみました。

「あの~タイヤのチェーンありますか?」

「もう無いです。宜しくお願いします。(ニッコリ笑顔)」

一分くらいでカー用品店を去る運びとなりました。

ま、雪が酷かったらレンタカー借りればスタッドレスだろうと来てみましたが、
確かに山間部のカーブは雪が残っていましたが、
それ程でもありませんでした。


それにしても





林檎?

様々な花が雪を背景に咲き乱れて大変美しいです。

みなかみの温泉は、少しぬるま湯で
ユッタリと過ごすのに最適で大好きっす。

私個人としては草津よりも好きです。
皆様も機会が御座いましたら是非、足をお運び下さい。



キオクノカタチ番外編~ワタクシゴト~

2010-04-19 22:29:52 | 履歴書


キオクノカタチ番外編 ~ワタクシゴト~


え~、最終回の前に、
このブログ管理人であり、X-ratedのボーカルでもある、私「まさーる」について、簡単ですが纏めてみました。


横浜南部のある都市、
通称「サザンダンシング・ヒル」

自営業一家の長男として生を受け、
私が1歳になる頃この地に引っ越してきました。

私の母は、
十代で私を宿し、出産した為か、
世の中への逆らい癖が身についていたのか、

ハッキリしませんが、

ある程度育った私に「パタリロ」を買い与えました。

幼稚園児にして大好きな漫画がパタリロという
もし、自分に子供が居たら「なんかやだな」って感じの子供がスクスクと育ちます。

そして遺伝子を共有する従兄弟達とクックロビン音頭を踊ったり、
漫画に登場するゴロのよい台詞を意味も分からないまま連呼したり、

「きゃ~、ひわい」とか、
「変態飛行~」とか、
叫びながら走り回っていました。

そんな私に、音楽で感動して、号泣するという出来事が発生します。
忘れもしない小3の一学期
私は勉強が大嫌いで、担任のねーちゃんも大嫌いで、
問題を起こしては、母が呼び出され、
しかし母は、私が正しいと信じてくれていたので、叱られた事はありませんでしたが、

(違う悪行には、かなり叱られましたが…。)

そんなある日、大量の課題を出された私はやる気にもなれずふてくされていると、
当時発売したばかりのウォークマンで、
母があるフォークトリオの歌を聴かせてくれました。

それはピーター・ポール&マリーのデビュー曲「レモン・トゥリー」でした。


聴いた瞬間から涙がバケツをひっくり返したように溢れ、
何度も何度も巻き戻しては聴き続けました。

結局、課題はやらなかったのですが…あくまで記憶ですが。

で、今まで音楽といえばアニソンにしか興味が無かったJSが、洋楽に目覚めた訳です。

そして私はFMラジオを聴くようになり、
最初にファンになったのが、デビッド・ボウイでした。
初めて買って貰った洋楽のカセットは「世界を売った男」でした。
(確かレコードじゃなかったような、もしくはレコードからダビングしてもらったか、記憶が曖昧ですみません。)

今でもあるか分かりませんが、当時は、オンエアされる曲が一覧となって掲載されているラジオ版テレビガイドのような雑誌があり、
母から強引に譲り受けた数本のカセットテープに
チェックしたお気に入りの曲を録音するようになりました。

今考えるとですが、
多分自分が好んで聴いていたラジオ番組は、70年代ブリティッシュ寄りで
いわゆる80年代MTV的な曲を聴くようになったのは、本当に最近で、
最近お気に入りのマイケル・ジャクソンを聴くようになったのも、
映画「THIS IS IT」鑑賞後でした。

話が逸れました。

そして、パタリロの後に、私のもう一つのターニングポイントとなる「ボヘミアン・ラプソディー」に出会う訳です。

それは小四の秋
私は畳にマジックでメモ書きや落書きする痛い少年に成り上がりましたが、

初めてボヘミアン・ラプソディーを聴いた時は思わず笑い転げました。

しかし、何故か胸に突き刺さり、この曲が気になって気になって、
まるで溢れる性欲をイケナイ方法で解消しようと企てているような心境でした。

幸いラジオガイドがあった為、
聞き漏らした曲のタイトルとバンド名が「クイーン」である事は、
畳に走り書きしたメモも手伝って、
再会は直ぐ果たせました。

涙こそ流さなかったものの、
間違いなく、私が一番聴いた曲になっていきます。
瞬間瞬間毎に、感動が詰まった名曲、素晴らしいの一言です。

当時デビッド・ボウイを
70年代初期と80年代後期とでは、
同姓同名のミュージシャンだと勘違いしていた私、
当然クイーンというバンドのメンバーやビジュアルを知らないし、知ろうとする権利さえ、放棄していた為、

「あぁ、女性が参加しているバンドなんだなぁ」と勝手に思い込んでいましたが、
数年後、女性が居ないどころか更に驚いた様子は想像に難しくないと思います。


私は、なかなか好きにならない体質ですが、
一度好きになると、周りは一切無視して好きであり続けるという
非常に有り難い性格をしています。

クイーンもパタリロも
今でも変わらず、
いつ何時、これらの作品に触れても
必ず何がしかの発見や閃きを与えてくれます。

フレディーは文字通りお星様になってしまいましたが、
残されたメンバーはファンの為に活動を続けていますし、
パタリロは未だに連載中で、
下世話さとマイノリティな趣向と美意識なパワーが衰えるどころか、
益々旺盛になっている気がします。

私も負けないように、
マイノリティに熱狂的に愛されるような作品を残せたらなぁ、
と思っています。


以上です。
それでは、キオクノカタチ最終回、お楽しみにね。

キオクノカタチ~ギタリスト~

2010-04-11 23:05:28 | 履歴書
キオクノカタチ ~ギタリスト~

今回は、第三の男
謎のギタリスト、「白昼堂々大三元氏」と私の馴れ初めから加入に至る過程をお楽しみ頂けたらと思います。


1992年頃、バイト先でケンケン氏と知り合う訳ですが、

ケンケン氏は、コージー・パウエル張りに様々なバンドのドラマーとして渡り歩いていました。

私は誘われるがまま、よくケンケン氏が参加するバンドのライブを見に行きました。

その中の一つが、大三元氏とケンケン氏によるユニットでした。

途中、演劇仕立てな構成を挟みつつ
8ビートが効いた曲の演奏というミクスチャー的な要素が
斬新過ぎず、よく纏まって仕上げられていた記憶があります。

そして何よりも大三元氏のギターワークが強烈な印象として残り、

この日の印象が、大三元氏加入の原動力となります。


その後、大三元氏は、ライブを行わなくなってしまったのですが、
ケンケン氏の他のバンドのライブ会場では、度々顔を合わせるようになり、
お話をするようになります。

当時大三元氏は、竿だけ屋さんとして全国を隈無く回ったり、
会社を立ち上げたりと、
その体験談は大変貴重で、ご自身の破天荒さと逞しさと相まって、面白い時間を過ごしました。


そして更なる加入への転機となったのが、
私の引っ越し先が大三元氏の住居と近い事、
そこへ月に何回かご近所のピアノ教室でドラム教室の講師としてやって来るケンケン氏と

この三名の飲む機会が増えた事です。
社会人ともなるとなかなかこうした時間が持てないのですが、
一度ペースを作ってしまうと、これを目標に数週間乗り切ろうとする活力に変換されまして、

さらに偶然、安くて美味しい居酒屋さんが近くにあった事も長続きの秘訣かもしれません。

そこで、私の作品を聴いて頂き、加入して頂く運びとなりました。

駆け足となってしまいましたが、こんな感じです。

他にも若干名加入しているのですが、
今回は、割愛させて頂きます。

さて、次回なんとキオクノカタチ最終回です。

お楽しみにね。

キオクノカタチ~バンド結成~

2010-04-05 15:36:37 | 履歴書
キオクノカタチ ~バンド結成編~


高校生で出会い
誘われ、
二十代前半まで、
私まさーるは、違う相方とバンドを組んでいました。
相方はギタリストでボウイ命、
氷室さんと布袋さんが表現活動の原動力のような方でした。

一方の私は音楽というよりは、クイーンに一途な男で
楽器はキーボードと打ち込みを担当していました。

このバンドが目指していた作風は、所謂「売れ専」一直線でした。
100%オリジナルで、誰かと作品を作り上げるのが初めてだった私には、
ソレっぽいのを、積み上げていく様がすげぇ楽しくて
毎晩のように相方の家に遊びに行っては、遅くまで作業したりセッションしたり、
相方のお母さんから夜食をご馳走になったりしていました。

相方は、私より3つ年上で財力があり、
またパソコンにも明るく、
当時あまり一般的ではなかったPC用シーケンスソフトとハード音源モジュールを所有し、
(所謂「DTM」のはしりですね。)
作曲ツールにTKプロデュースのシンセ「EOS B500」しか無かった私には大変刺激となりました。

しかしそれはまるで贋作工房、

沢山の物事を偽って無理矢理こじつけている作品ばかりに辟易してきました。
その後、この相方との長いようで短い関係も精算され、
暫くは音楽と無縁の日々が続きますが、

その間もケンケン氏とは逢瀬?を重ねていました。

ハードディスクレコーダー発売前夜
ヤマハが発表したMD4という、MDのMTRを私が購入し、
ケンケン氏には散々馬鹿にされた記憶が蘇りますが、

そんな月日が流れた1999年の真夏の事でした。

これまでキーボードと打ち込みで作曲していた私に転機が訪れます。
ケンケン氏と私は、共通のバイトの後輩である


シガちゃんに出会いました。


シガちゃんはチョット変わった人物でした。
みなとみらいの海辺で、バイト仲間で酒宴を開いた時の事
酔っ払ったシガちゃんは、カニを捕まえ高らかに頭上へ掲げると


「交尾しろ~」


と、突然切なすぎる雄叫びを発したり、
バイトの休憩中に作業用ヘルメットのインナーだけを被らされ、
ブスッとした表情とヘッドギアのコントラストが堪らない空間を作り出す事が出来たり、

そんなある日、シガちゃんをじーっと眺めていたら、突然詩とメロディーとコードが一遍に閃きました。

そしてこれはキーボードよりもアコギで纏めた方がいいなと、
ろくすっぽコードの握り方も知らないまま
直接弾き語りでMDに録音したものを周囲に披露した所なかなかの好感触。


そして同時に私は、周囲の知人・友人を歌にする面白さに目覚めたのです。
まるでコピーライターになったような爽快感、
自分が何を生み出したかったのかを知る。
それは最高の喜びでした。

無駄な言葉やメロディーが一切ない作品作りという、当たり前な事が当たり前で無かった私には、
正に青天の霹靂でした。


そして季節が巡りその年の秋だったか冬だったか。

ケンケン氏のアパートに招かれる事となりました。

普段私のアパートには入り浸っても、
あまりお呼ばれしてくれないケンケン氏のアパートへ、

何故か?

ケンケン氏には特にシガちゃんの曲を気に入って頂いたようで、
ケンケン氏自らがアレンジ、製作した渾身のオケの御披露目と、
更には、当時最新のハードディスクレコーダーへ、ボーカルを収録する為でした。

初めて聞いた時は、ドラマーがアレンジするとコードワークやメロディーではなく、
様々な打楽器のちょっとしたフレーズで盛り上げたりできるんだなぁ、と感心し、
今でも時々聞き直しては余韻に浸っていますが、

そのオケに録音しちゃ聞き直し、その場で更にアイデアを追加する。
大変有意義な時間を過ごした後に、
納得いく仕上がりを繰り返し聞きながら、
いいちこで目がトロンとしたケンケン氏から「一緒にやろう」というプロポーズがあり、私が受け入れ、

こうしてX-ratedの核が誕生した訳です。

とまぁ、私の記憶なんでケンケン氏は「違う違う」と否定するかもしれませんが、
大体こんな感じだったと思います。


次回は第三の男 謎のギタリスト
「大三元」氏と私の馴れ初めについてお送りさせて頂きます。

お楽しみにね。