宮城県仙台市泉区加茂2丁目
別名 深沢城?
築城・廃城年 不明、1350年代~?
主な城主 不明、国分氏?
近隣河川 七北田川
最寄街道 八乙女~実沢・根白石間
構成 不明だが結構な規模
主な遺構 曲輪、空堀、土塁、他
井戸跡 不明
仙台環状線を八乙女から西走し最初の坂を登り切ったところにある加茂団地、ここの北東部にある公園全体が 長命館 である。春は桜も美しく、櫓や四阿、遊歩道が整備されウォーキングや散策等の人がいつも行き交う。
公園のその姿自体によりここが城跡であることを如実に表している。かなりの規模感があるのでさぞや有名な武将が居住したに違いないとは、小学生でも思うだろう。 しかしあいにく城主は不明、使用年代も 1200年代(13C)~1600年代(15C)と推定されてはいるが、発掘調査当時の技術では確証には乏しい。どのように掘ったのかわからないが、陶器類は1400年代のものしか出土しなかったらしいことも不思議である。
『 吾妻鏡 』に、「 国府中山上物見岡 」という表記があるらしいがここが当該地かどうかは分からない。また 1700年代の 留守氏関連文書 中には、『 国分勇者長命別当 』の名が出てくるので、国分氏の家臣に長命と称される武士がいただろうとは認識されているが、規模的側面からここに居城したとはどうしても思えない。
1590年の 奥州仕置 において廃城になっていないようだから、それ以前にはすでに使用されなくなったということと見受けられる。勝手に想像を膨らませると、下向間も無い 国分氏 "本体" の居城だったのではなかろうか。
観応の擾乱・東北版か勃発した 1351年(観応2)、北朝方 の 留守氏側 に対して 南朝方 の 国分氏側 は 岩切城 で勝利した。しかし全国的には 足利尊氏(北朝方)が優勢であり、所領を分捕る事など儘ならず右往左往しながら僅か 3年後の 1354年(文和3)、足利一門の中でも名家の家系にある 斯波氏 が 中新田(宮城県加美郡加美町)に送り込まれてくるという情勢だった。
この城の本丸に想定される曲輪は東側、南東側を向いている気がする。この実沢・根白石の豊かな土地が、留守氏 や黒川氏、斯波氏 に攻め込まれないようにじっと目を凝らしているかのようにも見えるのだ。
登場文献 留守氏関連文書
解説設備 情報標識有り(北側)
整備状況 公園化(桜の名所)
発掘調査 1984~1985年(昭和59~60)、仙台市教育委員会?
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