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"跡" を 辿って。

御所館 跡 | 黒川氏 の 居館

2015-11-15 13:00:00 | 城館跡等

宮城県黒川郡大和町落合蒜袋宮下


築城・廃城年代   1380~1530年代(室町時代~戦国時代)
主な城主      黒川氏( 初代氏直 ~ 6代景氏 )


近隣河川      善川( 鳴瀬川水系 )
最寄街道      東西/松島街道( 吉岡街道 )、
          南北/吉岡東~落合舞野~奥田~駒場~伊賀~三本木


構成        本丸、二の丸
主な遺構      堀切、土塁、土橋、空堀、門跡、土倉跡
井戸跡       二箇所




奥州街道 のベースは現在、国道4号 を主体としているがそれは江戸時代以降に出来たものをほぼトレースしたものでありそれ以前の主要道路は、全く違うルートとなっていた。 室町時代以前はおそらくこの 御所館 跡 の沿道だったのではないだろうか。


この 御所館 には、室町時代前期辺りに 黒川氏 が入った。 大崎氏中新田 に入って間も無く後である。 この付近は古くから豊かなか里で、奈良時代には中央政府の役所である 『 吉岡官衙 ( 宮城県黒川郡大和町吉岡東2丁目9、県指定史跡 ) 』が置かれた。たくさんの税が取れる豊穣の地、室町幕府とて放置して空白地域を作るはずがない。






御所館跡入口、石神神社 例祭だったのだろうか、登城口に旗が立てられていた。




城(館)自体は結構な規模であったように思う。現 国道4号線 側から眺めても広大で豪壮、往時が偲ばれる。丘陵にはたくさんの曲輪が構築され馬蹄型に複雑に館を構成していたようだ。平場と平場は急峻な崖や堀切等で区間され通路や土橋で連絡するなど自然地形が巧みに利用された山城であったようだ。そして二期にわたって大規模な修築が行われている。




通説では 黒川氏 は、最上氏 の初代~3代の子が入ったものという3説があるがどうにもそうとは思えない。 大崎氏 や 最上氏 同様、斯波氏 直系ではないだろうか。通字さえ最上氏や大崎氏にあるものとは全然違うのだし。




本ブログで以前取り上げた 【 下草古城 】は、遺跡として平安時代から在るものだが、多賀城 の都から山深き 利府(宮城郡利府町)・鶴巣(黒川郡大和町) を経て 吉岡(黒川郡大和町)が見えると、相当開けているので、旅人はかなり壮快に感じただろう。 どこかの古い文書にもそんな表現を見つけたように覚えている。 殊更秋には黄金の野原が、天国の如くに印象的だったと思う。









吉岡官衙


そんな地域一帯を、冷静に視ていたのがこの 御所館。 民衆をゆるく治め代々豊かに暮らしていたように感じる。 年を経る毎に親戚感の薄れる 大崎氏 や 最上氏 と 様々なやりとりや諍いをしながら。そして刻々と取り巻く環境は変化し、経済も、人々の往来も、変わってゆく。そして 6代 景氏 の時に 鶴巣館(宮城県黒川郡大和町鶴巣字下草) へ移転の運びとなった。




登場文献      『 仙台領古城書立之覚 』



解説設備      なし
整備状況      無、石神神社、山林 & 東北自動車道


発掘調査      1983年、宮城県教育委員会・日本道路公団









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