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"跡" を 辿って。

岩切城 跡 | 留守氏 の 居城

2015-11-30 13:00:00 | 城館跡等

宮城県仙台市泉区岩切入山、字台屋敷、字入生沢、・宮城県宮城郡利府町神谷沢、菅野沢( 国史跡 岩切城址


別名         高森城、鴻の巣館、鴻ノ館
築城・廃城年     1345頃~1570(元亀元)年
主な城主       留守氏、畠山氏


近隣河川       七北田川
最寄街道       岩切街道(泉~岩切~利府~塩竈)、太白区郡山~多賀城~大和町


構成         本丸他
主な遺構       曲輪、土塁、堀切、虎口、掘立柱建物跡
井戸跡        西曲輪群の中心地の南側辺り



この辺は豊かな地域で古くから発展の先端を行く地域だった。周囲には縄文時代からの遺跡も多く古墳時代には柵跡もある( 「柵」については 色麻柵 参照、但し同質のものかは不明 )。また、七北田川畔の岩切大橋付近には『 冠屋市場 』・『 河原宿五日市場 』があり古くから陸奥国の一大繁華街であったようだ。【 太白区郡山~多賀城~大和町鶴巣 経由の~大和町吉岡官衙 】と、 【 陸奥国の一大貿易港の 千賀の浦塩竈)】 への " 交差 " 点 がここだった。 多賀城に国府を置こうと思った意識の源泉が分かる気がする。 岩切城は、国府・多賀城から見れば後背地だが元はと言えばこの辺随一の商都、そこに初めて京の都から派遣される役人が拠点を構えようというのも納得だ。




留守氏の祖・伊沢家景 は、奥州合戦(1189年・文治5)の翌年、大河兼任の乱(1190年・文治6)の後に 陸奥国留守職 に任じられた。『 仙台領古城書上 』には留守氏初代の 伊沢家景 を 初代城主 としているが、この城が鎌倉時代に築かれたことを証明する史料はない、『 奥州余目記録 』による 観応の擾乱 の東北版・岩切合戦(1351年・正平6・室町時代初期) で 初出している。 ※ 観応の擾乱


官僚として鎌倉幕府成立直前に下向し幕府成立後には意向に従い、足利氏が台頭するとまたそれに従いながら地位を確保し続けた。北朝・尊氏側につけて戦った 観応の擾乱・岩切合戦 に敗北して弱体化、それはひとつの要因でしかないだろうが、奥州探題 として新たに 足利系 の 名家・斯波氏 が派遣される。その頃すでに 周囲の領主らからは " Out of 眼中 " の存在、辛うじて家は存続している程度で敵対視する程のものでは無くなっていたと感じる。




岩切城 は 宮城県 県民の森 南端で、それら商都を見下ろす東西に延びる 高森山 の尾根を主軸に、南北に派生する小さな丘を取り込んで造られている。それぞれ縄張上特徴の異なる 西曲輪群東曲輪群 とを 尾根が土橋となって繋ぐ。西曲輪群 より 東曲輪群 は 新しいらしく、またどの城館とも同じように度々造り変えられているようだ。


敵の侵入と味方の攻撃に対して強固な意図を持った設計、攻めの 西曲輪群、守りの 東曲輪群 とイメージされる。おそらく、東南は多賀城、なので北西への侵入の守りを固める想定の館であった気がする。ゆえに起きてしまった往時、奥州合戦 に次いで凄惨な100余人の討死者を出した 岩切合戦 の舞台はまさに、尾根筋を切岸と堀で遮断する西曲輪群であった可能性が高いと推定されている。(写真左手の尾根)



西曲輪群の遺構配置



東曲輪群の遺構配置







 和賀義勝 麾下の 野田盛綱和賀義光 らは府中(多賀城)に到着した後、岩切城の " 搦手太田口 " を警固し、翌々日の総攻撃に参加、" 大仏南脇 " より城内に攻め入った。

奥州余目記録





" 搦手太田口 " は、北側の大和町鶴巣方面に通じる 大谷保太田 にある出口、" 大仏南脇岸壁 " は、東南にある 東光寺 の裏手付近らしい。南朝方は逃げ道を塞いだ上で随分前からの霊地・(板碑等も多い)聖地を踏み倒して容赦なく斬り込んで来ているようだ。 ゆえにもしかすると 岩切合戦 当時は 東の尾根はただの山林で、もし聖霊を掻き分けたとして攻め込まれても、攻撃で交わせると考えられていたのではないだろうか。 東曲輪群 はこの戦の後に設けられたのかもしれない。














2017年4月3日付の河北新報に、上記新説が掲載された。「 岩切歴史探訪の会 」に所属する仙台市宮城野区の歴史愛好家が、初期の登城路として、史跡入口付近と麓の台屋敷集落を結ぶ約300mの尾根道を推定した。と言うものだ。記事は、【 台屋敷口 】として観光客を迎えるルート化が出来ないかと提案している。




解説設備       不明、若干あるのかな?
整備状況       山林・一部公園( 高森山公園、2011年の東日本大震災で一部崩落・改修 )


発掘調査       1935年(昭和10)、地元の郷土史家( → 当時東北帝国大学嘱託/東北大学教授の 伊東信雄氏 が報告 )




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