11月9日Part3、ベルリンの壁崩壊メモ、前編。
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1989年 - ベルリンの壁崩壊: 東西ドイツの国境検問所で市民の通行が自由化。
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ベルリンの壁崩壊
1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた
東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を
「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表したことで、その日の夜にベルリン
の壁にベルリン市民が殺到し混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日に
ベルリンの壁の撤去作業が始まった出来事である。
略称として壁崩壊(ドイツ語: Mauerfall)ともいう。
これにより、1961年8月13日のベルリンの壁着工から28年間にわたる、東西ベル
リンが遮断されてきた東西分断の歴史は終結した。
東欧革命を象徴する出来事であり、この事件を皮切りに東欧諸国では続々と共産党
政府が倒された。そして、翌1990年10月3日に、「ドイツ民主共和国に再設置され
た各州がドイツ連邦共和国に加盟する」という名目(実質的には編入)にて、東西ドイ
ツの統一がなされた。
鉄のカーテンの崩壊
冷戦下では東西両陣営の境界線は特に厳格に管理され、「鉄のカーテン」と呼ばれ
ていた。この「カーテン」の内、ハンガリーとオーストリアとの境界の部分について、
ハンガリーでは1988年に国外旅行が自由化されており、オーストリアへ越境する
ためにわざわざ有刺鉄線の国境柵を侵す必要はもはやなかった。
結果、維持費がかかるだけの無用の長物になっていたため、ネーメト首相はゴルバ
チョフの暗黙の了解の下、1989年5月2日、鉄条網の撤去を開始した。
東ドイツ指導部は市民が迂回して西ドイツへ亡命することを危惧しゴルバチョフに抗
議したが、ゴルバチョフは「これはハンガリーの問題だ」として無視した。夏になると、
亡命を目論んだ東ドイツ市民が夏の休暇を利用してハンガリーに出国した。
しかし、自由化された国境を越えられるのはハンガリー国民に限られていたため、
東ドイツ市民は国境地帯に滞留、その数はおよそ10万人に上った。
8月19日、ハンガリーの民間団体の主催で「汎ヨーロッパ・ピクニック」がハンガリー
とオーストリアの国境沿いのショプロンで開かれた。このイベントはハプスブルク家の
末裔であるオットー・フォン・ハプスブルクが主催者となり、当初ハンガリーの人権グル
ープと民主フォーラムとともに「鉄のカーテンに別れを告げる祝賀の日」として計画され
たものであった。
これにハンガリー社会主義労働者党急進改革派のポジュガイ・イムレ政治局員が共催
者として入り、しかもポジュガイの後ろにはネーメト政権がいて、このイベントはハンガリ
ーに滞留する東ドイツ人をハンガリーとオーストリアとの国境を超えて西ドイツへ逃がす
ことを密かに企図したものとなり、後にヨーロッパ・ピクニック計画と呼ばれた。
この時、西側に脱出した東ドイツ市民は661人(一説には千人以上)に上った。
しかしこの時国境地帯に滞在していた東ドイツ市民は東ドイツ当局の策謀を疑って
動かず、さらにこのニュースを知った東ドイツ市民がさらに亡命を試みたため、国境
地帯の東ドイツ市民はさらに増加、ハンガリーにとっても対処に頭を悩ませることと
なった。
その後、ネーメト首相は西ドイツのコール首相と東ドイツ市民の亡命についての協定
を結び、さらにゴルバチョフの了承を得たうえで、9月11日、東ドイツ市民に向けて
国境を解放、東ドイツ市民はオーストリアを通過して、西ドイツの移民センターまで移
動した。
東ドイツ国内から、再び人口流出が始まった。
特に医師、電車やバスの運転手、高等教育を受けた若い労働者などが次々に出国し、
領内のあちこちで交通機関の運休や医療の崩壊、工場の閉鎖などの社会的混乱が
起きていた。この時点ですでに、人口流出の防波堤としてのベルリンの壁はその用を
なさなくなっていた。
東ドイツ当局はこのハンガリーの行動を激しく非難し、ワルシャワ条約機構外相会議
を開いて圧力をかけることを試みたが、ゴルバチョフの賛同を得られずに頓挫した。
さらに、ホーネッカーは急性胆のう炎と診断されて7月から療養中で、有効な対策が
取れなかった。
この時期、東ドイツ指導部は10月7日に予定している建国40周年式典を前に目障
りな問題を処理することだけを考え、行動していた。
9月27日、ニューヨークの国連総会の合間にシェワルナゼ・ソ連外相、ゲンシャー西
独外相、フィッシャー東独外相が会談し、プラハの西ドイツ大使館に滞在中の西ドイツ
への脱出が合意された東ドイツの人々を「追放」することに合意した。
30日、ゲンシャー外相はプラハの西ドイツ大使館を訪問し、バルコニーから大使館
内の敷地に野宿していた東ドイツ市民に向かって「我々は今日皆さん方が出国でき
るということをお伝えするために、ここへやって来ました。」とアナウンスした。このア
ナウンスと、市民たちが歓声を上げる様子はテレビを通じて全世界に伝えられた。
この東ドイツ市民の脱出は、東ドイツの建前としては「追放」であり、東ドイツ当局が
この建前を尊重するよう要求したことから、市民たちの移動経路はチェコスロバキア
から東ドイツ領内を国有鉄道の列車で通過することとなった。
10月1日から東ドイツ市民数千人が列車でドレスデン、ライプツィヒを通って西ドイ
ツに向かった。10月4日に列車がドレスデン中央駅に到着した際には、便乗しよう
とした「追放」希望者が駅に押し寄せ、人民警察の間で衝突が発生した。
東ドイツでは、大量出国の問題が深刻化するにつれて、問題の解決策を「誘導措置」
と呼んだ。出国の波を阻止するのではなく制御する方向に変えて、記念式典を前に
乗り切ろうとしたのである。
プラハと同じくポーランドのワルシャワでも「誘導措置」を行い、ワルシャワの西ドイツ
大使館に逃れた人々をLOTポーランド航空の特別便で「追放」した。しかしこれは国
家の存立を脅かす局面でしかなかった。
こうした中、当時のイギリス首相マーガレット・サッチャーはミハイル・ゴルバチョフ書記
長に、東側のリーダーとしてベルリンの壁崩壊を阻止するためにでき得る限りのことを
するよう要請し、次のように語った。
我々は統一ドイツを望まない。これは戦後の国境を変えることになってしまう
ことでしょう。我々は世界情勢の安定を傷つけ、我々の安全の脅威となるよう
な発展を認めることはできない。— マーガレット・サッチャー
10月3日、東ドイツ政府はチェコスロバキアとの国境を閉鎖した。
これによって、東ドイツ国民がチェコスロバキア、ハンガリー、オーストリア経由で西側
へ逃れることは不可能になった。しかし出国することができなくなったため、逆に東ドイ
ツ国民の不満は体制批判に転化していた。
ライプツィヒの市民デモ
国外へ大量に出国する市民もいれば、国内に留まってドイツ民主共和国を内部から
の改革を目指す動きはこの時期から活発になっていった。
9月4日、ライプツィヒでは秋の見本市が開催されていたがおよそ1200人が「大量
逃亡の代わりに旅行の自由を」と叫んでデモが行われた。以後ライプツィヒを拠点に
デモ(月曜デモ)が激化していくことになった。
このデモは2週間後の9月25日には8000人、10月2日に1万5000人、10月
9日に7万人、10月16日に15万人、10月23日にはついに30万人がデモ行進
に参加して、それまでの東ドイツにかつて見られなかった多くの市民が加わった大規
模なものになった。
「我々はここに留まる」「我々が国民だ」「自由な選挙を」「国家保安省は出ていけ」と
叫び、市民運動「新フォーラム」の認知とドイツ民主共和国憲法第1条の削除を要求
した。第1条には社会主義統一党が国家を指導することが謳われていた。
建国40周年記念式典
ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソビエト連邦からの支持を得ることであっ
たが、10月7日の東ドイツ建国40周年式典を訪問したソ連共産党のミハイル・ゴ
ルバチョフ書記長は、軍事パレードの後にシェーンハウゼン城(東ドイツ政府の迎
賓館として使用されていた)で行われたソ連・東ドイツ両国の党幹部の会合で演説し、
自国のペレストロイカの現状を報告した後、「遅れて来る者は人生に罰せられる」と
ホーネッカーに対する批判とも取れる言葉を述べた。
これに対して演説を行ったホーネッカーは、自国の社会主義の発展をまくしたてるの
みであった。ホーネッカーの演説を聞いたゴルバチョフは軽蔑と失笑が入り混じった
ような薄笑いを浮かべて一堂を見渡すと、舌打ちをした。
ゴルバチョフがホーネッカーを支持していないのは東ドイツの他の党幹部達の目にも
明らかだった。
ゴルバチョフは人民議会での演説でも先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り
返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで東ドイツ政府の支持には言及しな
かった。また前日の6日夜に行われたパレードでは、動員されたSEDの下部組織・
自由ドイツ青年団(FDJ)の団員らが突如として、ホーネッカーら東側指導者の閲覧席
に向かって「ゴルビー! 私たちを助けて」とシュプレヒコールを挙げるハプニングがあっ
た。これを見たポーランド統一労働者党のミェチスワフ・ラコフスキ第一書記は、ゴル
バチョフに若者たちの話している内容が理解できるか尋ねたところ、ゴルバチョフは
「ドイツ語は良くは知らないが、分かるような気がする」と答えた。
ラコフスキは「『ゴルバチョフ、我々を助けて』と懇願しているのですよ」と答えた後、
次のようにゴルバチョフに教えた。
これらの若者は、党活動家の最良の部分とされているのです。
これで、おしまいですよ。— ミェチスワフ・ラコフスキ
7日夜に共和国宮殿で行われた晩餐会の席でもゴルバチョフは、東ドイツを賛美し
自画自賛するホーネッカーの乾杯の挨拶を聴きながらそのすぐ脇で手厳しく批判の
言葉を述べていたという。
ホーネッカーが自画自賛しているその時、共和国宮殿の周りではデモ隊が抗議集会
を行っていた。ゴルバチョフは晩餐会が終わるとそのままシェーネフェルト空港へ直
行し、そそくさと帰国してしまった。
クレンツによれば、この時ゴルバチョフは周囲に居たSEDの党幹部達に「行動した
まえ」と、暗にホーネッカーを退陣させるよう囁いたという。
この日の夜、全体で547人が拘束された。
ホーネッカーの失脚
こうしてゴルバチョフに見捨てられ、忠実なはずの党の青年組織からも公の場で反目
されたホーネッカーは、ドイツ社会主義統一党内での求心力も急速に失われ、党内の
ホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となった。
10月9日、ライプツィヒの月曜デモは7万人に膨れ上がり、市民が「我々が人民だ
(Wir sind das Volk)」と政治改革を求める大規模なものとなった。
ホーネッカーは警察力を使って鎮圧しようとしたがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦
楽団指揮者のクルト・マズアらの反対に遭い、また期待していた在独ソ連軍が動かず
失敗に終わった。この頃には、人民警察によるデモ参加者への暴行の様子が西側の
メディアを通じて東西両ドイツの家庭で公然と見られるようになっていた。
こうした東ドイツ国内外での混乱が拡大すると、危機感を募らせた政権ナンバー2の
エゴン・クレンツ(SED政治局員兼治安担当書記、国家評議会副議長)や党政治局
員で党ベルリン地区委員会第一書記のギュンター・シャボフスキーらは、まず10月
10日から11日にかけて行われた政治局会議でホーネッカーに迫って、今までの政
治体制の誤りを事実上認める政治局声明を出させた。
今までの自分の政治を否定される格好になったホーネッカーは、12日に中央委員会
書記、全国の党地区委員会第一書記を集めた会議を招集し、自身への支持を取り付
けて巻き返そうとした。しかし、ドレスデンでの混乱に直面したハンス・モドロウ(ドレス
デン地区委第一書記)ら各地区の第一書記からホーネッカー批判の声が上がり、全く
の逆効果に終わった。特にポツダム地区第一書記のギュンター・ヤーンはほとんどあ
からさまに退任を求めた。
勢いづいたクレンツ、シャボフスキーらはヴィリー・シュトフ閣僚評議会議長(首相)や
ソ連の指導部とも連絡を取り、密かにホーネッカーの追い落としを画策した。
10月16日、ホーネッカーは再び月曜デモに対して武力鎮圧を主張したが、国家人民
軍(東ドイツ軍)参謀総長のフリッツ・シュトレーレッツ大将(SED政治局員)は「軍は何
もできません。すべて平和的に進行させましょう」と言ってホーネッカーの命令を拒否し
た。もはや軍も、ホーネッカーには従わなくなっていた。
※(中略)この後、投票によりホーネッカー退陣、エゴン・クレンツが新書記長に。
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この年の11月までに東ドイツを離れた市民は約25万人に上り、労働者不足により
残った市民の生活にも支障が生じるようになった。特に30歳未満の若者が大量に
脱出しており、ライプチヒでは市内のバス運転手の半数が出国したため退職者が職
場に復帰し、軍の兵士もバスの運転に動員された。
さらにトラックの運転手が国外に脱出したために食料品や生活必需品などの物流が
滞って倉庫に山積みになっていた。鉄道もブレーキ係や配電盤担当、機関士まで出
国したため運行に支障が生じた。
暖房や水道といった公共インフラも市の担当者が消えたため使い物にならず、医師
や看護婦が大量に退職して閉鎖寸前に追い込まれる病院もあった。
「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令作成
11月6日、東ドイツ政府は新しい旅行法案を発表した。
この法案では西側への旅行は許可されるとしたが、しかしそれは年間30日以内と
限定された上に出国の際には相変らず国の許可を要することや「特別な社会的要
請があった場合」には許可が取り消されるなど様々な留保条件が付けられていた
ため、翌7日に既にそれまでのように党の決定に対して従順では無くなっていた
人民議会によって否決された。
議会の否決を受けてクレンツ書記長らは新たに暫定規則(政令)で対処することに
した。同日、政府閣僚は全員辞職した。
1989年11月9日
この日、前日からのドイツ社会主義統一党中央委員会第10回総会の混乱は続いて
いた。経済学者ゲアハルト・シューラー国家計画委員長によって東ドイツの財政が莫
大な対外債務を抱えて破綻寸前になっていることが報告され、これまで東ドイツが社
会主義国では一番の工業力・経済力を持っていると信じていた党員達は当惑と失望、
ホーネッカーらに対する怒りの感情を抱いた。
旅行に関する政令の作成
この日までにクレンツ党書記長は恒久的出国(出典によって国外移住・永住出国・
常時出国とも呼ばれている)を認める新しい政令を作成するように指示しており、
この日の朝から内務省内に設けられた、内務省と国家保安省(シュタージ)の4人
からなるこの作業チームで作業が進められていた。本件に関する目下の問題は、
チェコのプラハに滞留している東ドイツ難民の処理であった。
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新しい政令案が12時に中央委員会の会議に届いた。
午後3時過ぎ、クレンツは中央委員会で前日から続く非難の応酬戦を中断し、
「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。
クレンツは新しい旅行法を施行するまでの過渡的な規定として、この文書を読み
上げ提案した。この新しい政令について、作業チームが提出した文書には
「旅券を所持している東ドイツの全ての人民は、いつでも、ベルリンを含むどこでも
国境警備のチェックポイントを通って出国することを認めたビザを取得する権利を
有する。旅券を持たない人民も出国の権利を付与する特別のスタンプを押した
身分証明書を所持することができる」
と書いてあった。
そして中央委員会でクレンツは「11月10日から効力を発効する」「明日、11月10
日に国境を開放する」と説明した。そして「東ドイツにとってプラスにならないあらゆ
ることが第三国を通じて行われており、問題を解決するにはこれ以外の方法はな
い」と述べ、この時に「暫定的」の文言の削除とともにフリードリヒ・ディッケル内相
から公表は内務省でなく、閣僚評議会から行うべきとの意見が出て、クレンツは
「分かった。政府スポークスマンがそれを直ちに行うように、私は言う」と発言した。
この時点ではクレンツの想定では、旅行許可自体はそれまでと同じく役所への申請
が必要であり、これで大量出国の問題について時間を稼ぎ鎮静化できるとの思惑
であった。東ドイツ市民は誰でもベルリンの壁の検問所に行けば通行が認められる、
などとは考えていなかった。
この提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。
記者会見
この時に社会主義統一党中央委員会政治報道局長に就任したばかりのギュンタ
ー・シャボフスキーは、記者会見のためにクレンツの執務室に入った。
この時にクレンツはシャボフスキーに政令文とプレスリリース用の文書を手渡して
「これを持っていけよ。きっと役に立つから」と述べた。
シャボフスキーはこの政令案の討議の最中、事務方との打ち合わせで委員会を
複数回中座しており、この文書の仔細を把握していなかった。
そのため、文書の「今から」が「明日11月10日から」を意味していることを知らず、
またクレンツも文面についての細かい説明を行っていなかった。
文書を受け取ったシャボフスキーは午後5時50分に中央委員会の席を離れて、
すぐ近くのモーレン通りにある記者会見の会場(国際記者会館)に公用車で移動、
6時から記者会見が始まったため、文書の内容を確認できていなかった。
この西側各国との記者会見は、ウルブリヒト時代から行われていたが、それまで
あくまで東ドイツのプロパガンダの場であった。新政権発足後はそれを改め、ほぼ
毎日定例記者会見を行っており、さらにこの日からは中央委員会の内幕とそれに
対する質問を許可することとなり、政権側も記者の側も、記者会見の進行に慣れ
ていなかった。この西側各国との記者会見には400人の記者が出席しており、
東ドイツ国営放送で生放送された。
シャボフスキーは文書の内容を正確には把握していなかったが、さらに、政令案の
通知文が既に記者達に配布済であると思い込んでいた。そのため、エールマンら
記者にとってはシャボフスキーの回答が初耳であり、エールマンがその内容を問い
ただした。
- エールマン
- それはいつからなのですか。
- シャボフスキー
- えっ、何ですか。
- エールマン
- 直ちにですか。
- シャボフスキー
- つまり皆さん、私のところにはその通知が来ていますが、
そうした通知はもうすでに…広く連絡済みで…あなた方はすでにお持ちでしょう。
我々はもう少々手を打った。
ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。
では申し上げよう。
ここでシャボフスキーはクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、内容を
読み上げた。
この政令案は、この日中央委員会で承認されたが、まだ閣僚評議会(内閣)の閣議
では決定されておらず、正式な政令ではなかった。本来この政令は、この記者会見
よりも後のタイミングで閣議決定を行い、11月10日に発表し、直ちに発効すること
になっており、シャボフスキーに渡された政令案の文書が10日に報道発表するた
めの文書であったが、細かい事情を把握していなかったシャボフスキーは、すでに
閣議決定されており、また公表もされているものと勘違いしていた。
ちなみに実際に記者会見の後、政令は正式に閣議決定され、東ドイツ国営通信が
政府報道官の発表として伝えている。
口頭で政令の内容を伝えた後、エールマンから発効のタイミングについての問いが
あった。本来の発行日は翌10日であったが、シャボフスキーの手元の文書には、
発効期日は書かれていなかった。
- エールマン
- それはいつ発効するのですか。
- シャボフスキー
- 私の認識では『直ちに、遅滞なく』ということです。
この直後にアメリカNBC放送のトム・ブロコウ記者から「ベルリンの壁はどうなる
のか?」「西ベルリンに東ドイツ市民は行けるのか?」との質問があった。
シャボフスキーが文書を見ると、「西ドイツ及び西ベルリンへの越境は許可される」
と書かれてあったため、「常時出国は東西ベルリン間を含む東西ドイツ間のどの
国境検問所からでも行える」と答えて、質問に肯定する素振りを見せた。
これでシャボフスキーは「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過
点から出国が認められる」と、勘違いで発表してしまったのである。
「東ドイツの全ての国民が東ドイツの国境検問所を使って国を離れること
を可能にする」
「外国への個人旅行は現在のビザ要件を提示したり、旅行の必要性や家族関係を
証明したりしなくても申請できます。旅行許可は短期間で発効されます」
「遅滞なく発給するように指示されます」
と述べたのであった。
マスメディアの報道
東ドイツでは言論統制で出版物や新聞・雑誌の発行及び西側からの持ち込みも禁止
されていたが、唯一電波だけは防止することができなかった。東ドイツ領内の中心に
位置するベルリンの西側から電波を発信していて東ベルリン120万人が西ドイツ側
のテレビ放送局ドイツ公共放送連盟(ARD)と第2ドイツテレビ(ZDF)を視聴できた。
この他に西ベルリンを含む東西ドイツ国境沿いで8カ所のテレビ塔を立てて東ドイツ
国内に自国のテレビ番組が見られるように電波を飛ばしていて、南東部のライプツィ
ヒやドレスデン一帯には地上波は届かなかったが(その代わりパラボラアンテナで衛
星放送が受信できた)、およそ東ドイツの7割近くが受信可能であった。
この11月9日夜の記者会見の模様は、東ドイツ国営テレビのニュース番組におい
て生放送されていた。東ベルリンも西ベルリンのテレビ電波が受信できるので東西
市民は互いのテレビ番組を視聴することが可能であった。
またラジオも同様であった。
西ベルリン市内に中継局が存在する西ドイツのラジオ局の他、夜になると電離層反
射で遠くイギリスやスウェーデンの放送も受信することができた。短波放送に至って
はアメリカ合衆国や日本のものさえ受信可能のケースがあった。
そしてこれを見ていた東西両ベルリン市民は戸惑い半信半疑となった。
この発言が出た時、時刻は午後7時を少し回っていたが、それから4分後にはロ
イター通信・ドイツ通信(DPA)・AP通信の各通信社は速報を出した。
混乱してロイター通信とドイツ通信は『旅行に関する新しい取り決め』があった事実
に重きを置いた打電であったが、AP通信は「境界が開かれる」と打電している。
7時17分にZDFがニュース番組「ホイテ(今日)」で放送し、7時30分からの東ド
イツ国営テレビのニュース番組「アクトゥエレ・カメラ(今日の映像)」では2番目にこ
のニュースを伝えた。ただどちらも「旅行に関して新しい規則ができた」と報じただけ
であった。
しかし7時41分にドイツ通信(DPA)は「西ドイツと西ベルリンへの境界が開いた」
と打電し、そして午後8時に西ドイツのARDがニュース番組「ターゲスシャウ」で
冒頭にアンカーマンのハンス=ヨアヒム・フリードリッヒが「今日11月9日が歴史的
な日となりました。東ドイツが国境を開放すると宣言しました。」と報道した。
またほぼ同時刻に、記者会見の場で質問に立ったアメリカNBCのトム・ブロコウ
記者が、ブランデンブルク門の所にある検問所付近の壁を前にして「これは歴史
的な夜です。東ドイツ政府がたった今、壁の向こうへ通行できると宣言しました。
何の制限も無しです。」とNBC放送の電波に乗せて全米にレポートした。
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<後編、Part4に続く>
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