祈りと気
たとえば、仏教でもキリスト教でも祈りのときには両手を合わせる(合掌)。こ れは明らかに、気功法のトレーニングと一致している。掌の中央には「労宮」 と呼ばれる強力なツボがある。気功法でいうツボは、身体と下界との「気」の 出入口と教えられており、この「労宮」は、気功師が患者の治療をするとき に、「外気」を発射するツボとして使われる。左右の「労宮」を合わせる、という ことは、自分自身の身体に「気」をめぐらすための手法だといわれている。 「胸に手を当ててく考えてごらん」という表現がある。外国映画でも手を当てて うやうやしく会釈する、というシーンがよくある。両方の乳首の間には「檀中」 と呼ばれるツボがある。ここは「心気の宿る王城」といわれ、精神的なストレス の影響が表れやすいツボだという。「胸がつかえる」「胸がふさぐ」「胸さわぎ がする」「胸がきゅんとなる」「胸がふくらむ」「胸が痛む」「胸が躍る」などとい うのは、すべてこの場所のことです。
この「檀中」に左右の手を重ねる、つまり 両方の「労宮」を重ねるということは、「気功法」の中で自分自身に行なう「手 当て」のもっとも基本の一つだ。ちょっとしたトレーニングを積んだ人なら掌と 胸がだんだん温かくなって、氷が溶けるように胸のつかえがとれるのを実感 できる。宗教でいう「祈り」という行為は、限りなく瞑想に近い。「気功法」では ただひたすらに瞑想するトレーニング法を「静功」と呼んでいる。「座禅」はそ の典型だ。毎日欠かさず「祈る」人は、知らず知らずのうちに「気功」の能力 が高まり、手をかざしただけで病気の治療ができるようになったとしても、不 思議ではない。「気功」の中には、声を出すトレーニング法もある。すると、毎 日お経を上げるお坊さんや祝詞を上げる神主さんは、実はすばらしいトレー ニングをやっているのかもしれない。
宗教の歴史的役割ともかく、日本でも西 欧でも、近代医学が発達する以前には、病気の原因は「悪霊」と考えられて おり、聖職者が治療を行なっていたケースが多い。天台宗や真言宗など密教 系の仏教では、これを加持祈祷と呼んでいる。「気功」でいう「気」を、加持力 とか法力とか呼んでいる。おそらくは、僧は必死に祈り、手をかざし、病人を 治療したものと思われる。そして、上述の理由により、一般の人びとよりは少 なくとも聖職者のほうが「気功」の力は上だったとも考えられ、精神的な効果 も合わせて、かなりの治療効果があっ可能性が高い。今でも、未開の地に行 けば、呪術師が、冠婚葬祭から出産や病気の治療、さらには政治にいたるま で取り仕切っていることが多い。昔は、すべての宗教がそういう役割を担って いたとも考えられる。すると、そのころの聖職者は、イマよりも、もっと「気功」 の能力が高いことが要求されており、日夜トレーニングに励んでいたとも想像 できる。今日の宗教的な儀式が、「気功」のトレーニング法と似通っているの は、決して偶然ではないだろう。
たとえば、仏教でもキリスト教でも祈りのときには両手を合わせる(合掌)。こ れは明らかに、気功法のトレーニングと一致している。掌の中央には「労宮」 と呼ばれる強力なツボがある。気功法でいうツボは、身体と下界との「気」の 出入口と教えられており、この「労宮」は、気功師が患者の治療をするとき に、「外気」を発射するツボとして使われる。左右の「労宮」を合わせる、という ことは、自分自身の身体に「気」をめぐらすための手法だといわれている。 「胸に手を当ててく考えてごらん」という表現がある。外国映画でも手を当てて うやうやしく会釈する、というシーンがよくある。両方の乳首の間には「檀中」 と呼ばれるツボがある。ここは「心気の宿る王城」といわれ、精神的なストレス の影響が表れやすいツボだという。「胸がつかえる」「胸がふさぐ」「胸さわぎ がする」「胸がきゅんとなる」「胸がふくらむ」「胸が痛む」「胸が躍る」などとい うのは、すべてこの場所のことです。
この「檀中」に左右の手を重ねる、つまり 両方の「労宮」を重ねるということは、「気功法」の中で自分自身に行なう「手 当て」のもっとも基本の一つだ。ちょっとしたトレーニングを積んだ人なら掌と 胸がだんだん温かくなって、氷が溶けるように胸のつかえがとれるのを実感 できる。宗教でいう「祈り」という行為は、限りなく瞑想に近い。「気功法」では ただひたすらに瞑想するトレーニング法を「静功」と呼んでいる。「座禅」はそ の典型だ。毎日欠かさず「祈る」人は、知らず知らずのうちに「気功」の能力 が高まり、手をかざしただけで病気の治療ができるようになったとしても、不 思議ではない。「気功」の中には、声を出すトレーニング法もある。すると、毎 日お経を上げるお坊さんや祝詞を上げる神主さんは、実はすばらしいトレー ニングをやっているのかもしれない。
宗教の歴史的役割ともかく、日本でも西 欧でも、近代医学が発達する以前には、病気の原因は「悪霊」と考えられて おり、聖職者が治療を行なっていたケースが多い。天台宗や真言宗など密教 系の仏教では、これを加持祈祷と呼んでいる。「気功」でいう「気」を、加持力 とか法力とか呼んでいる。おそらくは、僧は必死に祈り、手をかざし、病人を 治療したものと思われる。そして、上述の理由により、一般の人びとよりは少 なくとも聖職者のほうが「気功」の力は上だったとも考えられ、精神的な効果 も合わせて、かなりの治療効果があっ可能性が高い。今でも、未開の地に行 けば、呪術師が、冠婚葬祭から出産や病気の治療、さらには政治にいたるま で取り仕切っていることが多い。昔は、すべての宗教がそういう役割を担って いたとも考えられる。すると、そのころの聖職者は、イマよりも、もっと「気功」 の能力が高いことが要求されており、日夜トレーニングに励んでいたとも想像 できる。今日の宗教的な儀式が、「気功」のトレーニング法と似通っているの は、決して偶然ではないだろう。